<span itemprop="headline">庭の花・戦争を考える6(従軍看護婦の体験)</span>
今朝は朝から雨が降り、梅雨入りしたようです。
湿気と暑さが大変になりますね。
皆様も体調管理に気を付け、今日もお元気でお過ごしください。
今咲いている庭の花を紹介します。
ヤマアジサイが咲き始めました。
小さくとも、気品があります。
ムシトリナデシコも盛りです。
雑草ですが、可愛い花です。
カシワバアジサイも咲き始めました。
ボリューム満点です。
蔓バラも盛りとなりました。
つぶやき(従軍看護婦の体験・佐藤峰香さんの話)
*転載{マニラに向けて進軍する日本の戦車}
私が日赤に入ったのが昭和17年。
赤紙が来て、19年3月、病院船に乗って、フィリピンに出航した。
途中魚雷があったり、米軍の潜水艦に追われたり、大変な目にあった。
やっとマニラにつき、マッキンレーというところで勤務した。
9月になると、米軍の攻撃が始まった。
あちこち移動しながら、結局山に逃げた。
私達にも、手りゅう弾とショウコウ剤(毒)が配られ、大和撫子らしく立派に散ってもらいたいと言われた。
動けない患者さんには、永眠の注射液をすることになり、少し入れて打つと、「昨日打ってもらった注射がよく効いて眠れた。もう一辺してくれるか。」と言われてぎくっとした。
動けない兵隊さんに、「また迎えに来るから。」と言って、おにぎり2個と芋づるの入った汁を枕元に置き、戸を打ち付けて私達は避難した。
山は雨も多く、生きている兵隊さんの傷にも蛆がわいて、ピンセットでほじりだし消毒した。
包帯は不足して、紙で押さえてばんそうこうで止めるだけだった。
私も生理が止まってしまった。
逃げているとき、何も持たない骸骨のような兵隊さんがいて聞いてみると、「どうせ死んでしまうものには、いらないだろう。」と同じ日本兵にはがされたといっていた。
私も栄養失調になり、マラリアにもかかって、40度以上に熱も出たが、我慢して勤務していた。
食料もなかったので、現地の人のさつまいも畑で、盗んで食べたりもした。
山で移動しながら逃げていたが、翌年8月15日の終戦を知って、1週間かけて捕虜収容所に移動した。
途中、現地の人から、「どろぼう。馬鹿野郎。」と言われたり、石を投げられて、みじめな思いをした。
主人は長崎で被爆し、目が見えなくなった。
家族を養うため、土方や魚の養殖のえさやりまでした。
みじめでどん底の生活だったが、耐えられたのはあの戦争の体験があったからだともう。
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戦争の後半、南アジア諸島を米軍が奪回し、レイテ、ルソン島を含む、フィリピン戦は、日本が死守する海外の最後の防衛線として、日本と連合軍の陸海空軍隊が大規模な戦いをしました。
戦死者は、日本兵・軍属50万人、フィリピン人・連合軍兵100万人といわれています。
従軍看護婦の佐藤さんの話のように、地獄のような戦争で、6.7割は餓死、病死だったといわれています。
戦地では最大の死傷者が出た戦いでした。
特に現地の人々を巻き込んだ、悲惨な戦争でした。
再び南アジアで、日中の戦争がはじまったら、血を血で洗う、泥沼化、長期化は避けられません。
武力による国際紛争解決の道はとらない!!
これが平和憲法の外交理念です。
人が殺し合い、傷つけ合う戦争ではなく、話し合いで互いの合意を作り上げていく外交の力で、共存共栄の道を求めていくべきです。
現地の人をまきぞいにし、負傷者を見捨て、互いに殺し合い、奪い合う戦争は、絶対に繰り返してはいけません。
転載元: 日々の感想、出来事など