riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline">再転載、反骨の報道写真家・福島菊次郎さん(90歳)のことby山本宗補氏</span>

 


 今日は上関町の町長選挙投票日。原発推進派が1982年から8期連続で当選していながら、中国電力が30年前から原子力発電所を建設しようとしているが、原発予定地対岸にある祝島島民の根気強い建設反対運動によって、建設できないでいることで知られる。写真は2010年3月に、中国電力が反対島民に対して「説明会」をしたいと初めて島にやってきたところを祝島島民が追い返した時のもの。2010年3月の雑記帳に写真も多数載せて詳細を書いてあります。
(速報によると、選挙結果は原発推進派の柏原氏が3選されてしまった。柏原氏が1868票、祝島の山戸氏が905票だった。当日有権者数は3206人。投票率は87.55%(前回88.08%)。
 私が祝島原発反対運動や上関原発の建設問題を知るようになったのも、今日紹介する報道写真家・福島菊次郎さん(90歳と6ヶ月)とのご縁からだ。現在は山口県柳井市のアパートで、愛犬ロクとの独居生活の菊次郎さんは心から畏敬する報道写真家だ。菊次郎さんの生き様と原発反対運動は直結し、菊次郎さんが取材し報道してきたものから学ぶことばかりだからだ。


 先日19日の「さようなら原発」集会・デモの写真の中で、菊次郎さんが集会場で撮影している写真をtwitterに載せたら、アクセスが15000人ほどにのびたが、誰でも存在感を感じる人だとわかるだろう。その菊次郎さんを17日と18日の二日間、原発事故による放射能汚染の影響が深刻な福島県内各地を案内したので、写真で紹介したい。
 その前に、菊次郎さんのことを簡単に知ってもらおう。亡くなった作家の井上ひさしさんが、東京時代の福島さんの人物ルポを雑誌に書いている。
「福島氏が豪(えら)いのは、外出すると尾行がつくことである。つまり家庭では優しい父親である氏が、いったん玄関の戸をあけて足を一歩外に踏み出すと、体制側の要注意人物になってしまうわけだ」
 菊次郎さんは広島の被爆者を撮り続けた写真集『ピカドン ある原爆被災者の記録』によって、「原爆写真家」として知られるようになり、国の権力と一貫して対峙してきたことから「反骨」の報道写真家として知られる。菊次郎さんは1921年、山口県下松市生まれ。60年代初頭から20年間、フォトジャーナリズムの第一線で活躍し、「文芸春秋」などの月刊誌や週刊誌などを中心に、一時は年間150ページ以上発表した。刊行した写真集は12冊、2003年 からは写真に『写らなかった戦後』シリーズの活字だけの著書を執筆。いまはシリーズ4冊目に取りかかっている。原発事故関連の取材はその冒頭にくる予定だという。
 ベトナム反戦運動三里塚闘争学生運動が高揚した戦後日本の激動期。機動隊に立ち向かう若者たちに、福島さんは共感以上のあこがれを感じ、夢中でカメラを向けるようになる。「若い頃、国のいうことを鵜呑みにしていた自分がどれだけ阿呆だったかを思い知らされた」「学生運動は国家権力に対する反乱であり、市民運動は海をこえた反戦運動」だと。もっと詳しく菊次郎さんの生き様を知りたい方は、私が信濃毎日新聞に書いた連載記事がホームページにあるので読んでください。
(ちなみに、私が菊次郎さんに初めてお会いしたのは86年。周防大島の南端にある沖家室島の元気なお年寄りを取材に行ったときで、福島さんは当時は周防大島で自給自足の生活を実践していた。そのとき以来のご縁で、最近は菊次郎さんの講演会や写真展を企画したりしてきた)

福島市渡利地区の七社宮児童遊園で撮影する菊次郎さん。(9月17日)8月末に実験的な除染がされ、線量が半減したといわれるが、地表1mで毎時1.3マイクロシーベルト前後あった。

南相馬市国道6号線20㌔検問所手前の駐車場で。(9月17日)

検問所手前の国道沿線に、東京のボランティアが植えたひまわりがピークを過ぎて枯れていた。下は20㌔検問所で撮影する菊次郎さん。二枚とも9月17日撮影。



南相馬市原町区の海岸に近い大津波被災地にある瓦礫の山で。下は同鹿島区国道6号線脇に流された漁船が残る現場で。共に9月17日撮影。


南相馬市馬場の生乳を出荷している酪農家・瀧澤さんを取材。牛舎の脇には立派な牛魂碑が建ち、瀧澤さんは3代目の酪農家だと知った。下の写真は牛舎で乳牛の撮影中の菊次郎さん。9月18日撮影。

 酪農家の取材は順調だった。が、隣りの家のご主人に呼び止められ、枯葉や枝などを焼いた灰の上で放射線量を計って驚いた。毎時20マイクロシーベルトを超えていたのだ。放射性物質が焼却によって濃縮されたためだ。話を伺うと、この家のご主人は原発作業員を20年やってきた人で、3月11日まで福島第一原発で働いていた人だった。菊次郎さんがこの時とばかりに、いろいろとご主人に訊ねたのはいうまでもない。

津波によって大きな被害の出た相馬市磯部の海岸で太平洋見つめた菊次郎さん。9月18日撮影 菊次郎さんの生まれ育った瀬戸内海の海と大きく異なることを実感したようだった。

飯舘村の酪農家・長谷川健一さんの空っぽになった牛舎で。菊次郎さんは、広島の被爆者の取材や、戦後の広島が平和都市であるのは「嘘」であること、戦後日本が侵略戦争をあいまいにしたツケなど、よどみなく話続けた。自分の子どもの年齢と同じような長谷川さんを前にして、菊次郎さんの取材の意気込みはスゴイものだった。それをガッチリと聞いて受け止め、原発事故によって全てを失おうとしている飯舘村村民の怒りや悲しみをしっかりと話すことのできる長谷川さんもスゴイ人だった。


駆け足の取材のラストは、飯舘村で最も放射能に深く汚染されている長泥地区を案内した。文科省が毎日測定するスポットで、この日の線量は毎時15.6マイクロシーベルト。ここを案内したのは、福島県といっても、原発からの距離とあまり関係なく、放射線量が場所によって大きく異なることを実感してもらうためだった。その典型的な例が福島市内の線量が、原発から20㌔の南相馬市海側一帯よりも3~4倍高い事実であり、30㌔以遠に位置する飯舘村の汚染度の異常な高さだ。9月18日撮影
そして、翌日が「さようなら原発」の取材となったのだ。
さいごに、私が好きでよく引用する菊次郎さんのことばがあるので知ってほしい。
「現代の市民運動に問われているのは、勝てなくても抵抗して未来のために一粒の種でもいいから蒔こうとするのか、逃げて再び同じ過ちを繰り返すのかの二者択一だけである」
 菊次郎さんは上関原発の反対運動を最初から取材してきたが、この20年間、ずっと祝島島民の反対運動に密着して写真集として出版した那須圭子さんは、菊次郎さんの弟子のような存在。その那須さんの写真集『中電さん、さようなら 山口県祝島原発とたたかう島人の記録』は必見だ。
PS:fotgazetVol.3では、菊次郎さんの広島の被爆者を撮影した写真を16ページにわたって大特集しています。
大特集は「時代の証言者たち」広島・長崎・水俣・福島とつづきます。詳細はこちらをクリック。fotgazetはフリーランスのジャーナリスト10数名でつくるJVJA(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会)が独自に編集して発行する年4回発行の有料購読オンラインマガジン。フリーランスの活動を購読もしくは寄付で支えてください。

 


転載元: 情報収集中&充電中