riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">首相官邸の前で</span>


【特番ライブ】ドキュメンタリー「首相官邸前で」ゲスト:小熊英二(社会学者・監督)

映画『首相官邸の前で』予告編


2012年夏に首相官邸前で行われた原発政策への抗議デモの様子を記録したドキュメンタリー。11年3月11日に発生した福島第一原発の事故前は全く別々の立場にいた、性別や世代も異なる人々が、12年夏、「脱原発」と「民主主義の危機」という共通の言葉をもって首相官邸前に集まり、事故後の原発政策に対する抗議の声をあげた。デモに参加した8人の体験談や無償提供された現場での撮影映像を交え、当時の様子を記録した。「社会を変えるには」「1968」といった著作も発表している社会学者で慶應義塾大学総合政策学部教授の小熊英二が映像作品で初監督を務めた。







菅直人   浜岡原発を停止させてくれたのはよかった、無理やり彼を引きずりおろし今はもっと最悪です。この映画では彼が何を言ってるのか聞き取れないのですべて字幕にしてほしかったです。映画館では満員だったそうです。今日も大勢の方が参加しました。
亀屋幸子 双葉町から避難した亀屋幸子さん、3.11後、被爆数値が高い方、高い方に非難する羽目になった、東電は何もしなかった! ヤシンタ・ヒン  後述 吉田理佐 、「おとなしい彼女が 声をあげるようになる過程がこの映画の .... 出演者の吉田理佐氏が観客できており、 彼女の名文句である「微力は無力じゃない」無関心だったお母様も変わった! 服部至道 警察とも話し合いながら、かつてのデモのように衝突が起きないよう、
細心の注意を払っているのです。
4か月前に始まった今回のデモ。
当初は小規模なものでした。
大飯原発の再稼働に向けて議論を始めようとした野田総理大臣に対し、
300人ほどで声をあげたのです。

大きな変化が起きたのは6月(6月8日)

野田:
国民の生活を守るために大飯発電所3,4号機を再起動すべきというのが私の判断であります。

この発言に抗議しようという呼びかけがツイッターなどで瞬く間に拡散していきます。

6月15日
会見の一週間後には、1万人が集まりました。

デモを呼び掛けた服部さんにとっても、予想以上の数でした。
小田マサノリ

原発事故後のうねりを追う映画

 小熊英二監督の「首相官邸の前で」は刺激的だった。
 東日本大震災以降、人々が国や東京電力に対してなぜ怒り、脱原発の声を上げはじめたか―その過程を追ったドキュメンタリーである。
 小熊といえば、『〈民主〉と〈愛国〉』『1968』などの著書がある歴史社会学者として知られる。彼は首都圏反原発連合の活動にも協力し、国会周辺でよく見かけるが、撮影している姿は一度も見たことがない。その彼がどうして?と疑問だったが、実はネット上に投稿された自主撮影映像を撮影者から無償で提供してもらい、当時の首相・菅直人をはじめ福島からの避難者・亀屋幸子、反原発団体リーダーのミサオ・レッドウルフら8人の発言を挿入して構成している。そのための撮影・編集は石崎俊一が担当し、二人で作ったという。
 映画は原発事故の映像と8人の体験談から始まり、ツイッターで呼びかけた高円寺の「素人の乱」のデモ、新宿アルタ前でのデモなど紆余(うよ)曲折を経ながら次第に抗議活動が広まる様子を流していく。
 当初、黙殺を続けるマスコミに発言者たちはショックを受け、「この国は抗議をしない国なのか」「日本社会は波風の立つ話題は避けたがる」と話していたが、ついにデモは2012年6月29日の官邸前で20万人(主催者発表)にまで膨れ上がった。
 これらの断片をつないだ映像は、すっかり忘れていたことを蘇(よみがえ)らせる。デモ参加者が車道を埋め尽くしたその時、リーダーが危険を察知して行動を打ち切ったシーンが印象的だ。この判断が抗議行動を一過性に終わらせず、息の長い活動に発展させた。
 興味深かったのは、社会運動などに無縁だった若い人たちが、やむにやまれず声を上げる、手探りで新しい運動を作り出すさまを捉えた点だ。そこに小熊の歴史社会学者としての面目を見ることができる。
(木下昌明)





ヤシンタ ヒン


ヤシンタ ヒンはオランダで生まれ、1989年から現在まで日本在住。ヒューマンリソースやパーソナルコーチングとして指導する他、embrace-transition.comの創始者でもある。
2015年8月30日正午、東京。私と友人は国会正門近くの希望のエリア* にたどり着いた。この日は、日本政府が国会を通そうと試みている安保法案に反対する大きな抗議デモのある日だ。多くの人々が集まる事が予想されている。だが、雨が降ってきた。十分な人数が集まるだろうか、と不安になる。中略
1人の男性が私の肩を叩いて、`ここへきてくれてありがとう´と慣れない英語で言ってくれた。`勿論よ’ と私は返した。´日本は私の国。私は世界の一市民。これは日本国内だけの問題ではない。日本を国外の戦争に参加する事を禁じ、日本を守る行為のみ許す事を規定した憲法9条は平和の象徴。9条は日本国民のための法律であり、政府のための法律ではない。9条は世界が受け継ぐべき遺産であり、私が考えうる限り、他国もこれを採択するように鼓舞する力があると思う。’
私はデモと人々の連帯の力を信じているからここにきている。私は脱原発デモの常連だ。もうすでに3年以上も日本で続いている毎週金曜日の原発再稼働反対デモにも来ている。初めから抗議をすることには大切な意義があると分かっていた。日本の人々はここに来て、常に平和なやり方で、お互いにつながりあい、励ましあい、声を共に上げながら、現実を変えていくことができると学んでいるのだ。
日本はすっかり変わりつつある。政府による憲法9条の解釈改憲の成功・失敗をよそに、憲法学者たちはこの解釈改憲違憲であると述べ、日本国民は政府のやり方にはついていかない、と考えを改め、政治に対して恥ずかしがらず、オープンに自分たちがどのように感じているのか意見を言うようになった。人々は抗議の仕方を覚え、少し前までタブーであると思われていた政治の話題を話し合うようになった。かつて政治や社会問題に興味がないと思われていた10代後半から20代前半の若者たちは、自分たちで政治団体を作った。`民主主義のための学生たちの緊急行動´SEALDs シールズ である。今、平和のために抗議をしているグループの中で先頭を切ってリードしているこの学生達は、民主主義という言葉に新たな息吹を吹き込み、自分たちの声を聞いてほしいと要求している。彼らのマニフェストは深淵で、彼らの行動には勇気を奮い立たせられる。シールズについては、日本語または英語のウェブサイトを見てほしい。突然、どこからともなく現れたシールズは、時代に逆行しつつある日本政府に反対するムーブメントをかつてない程盛り上げている。
3時間抗議を続け、私の声は枯れた。私達は、途切れることなく、`憲法守れ′`戦争反対′`民主主義って何だ′`安部やめろ′などのスローガンを叫び続けていた。これらの言葉は叫ぶうちに、心が覚醒していくようなマントラになる。もっと長い時間、他の抗議者たちと叫び続けることだって私にはできる。
今日のような一日を過ごすと希望が湧いてくる。
その後、東京の抗議デモには12万人が参加し、それと同時に、地方には200以上の抗議デモがあった事が分かった。

↑心強いですね!

高度成長後日本ではデモ等ほとんど行われなくなったけれど
3.11のすぐあとから国民は変わった、普通の人が、高校生も青年も高齢者も抗議の声をあげた。

ところが記者会館がすぐそばに有るのにマスコミは報道しなかった!
名古屋でも西さんや女子高校生たちが抗議のパレードし私も参加しましたが、新聞社や記者やカメラマンはきて記事にしてくれました。
国会周辺は


当時の記事いくつか転載しました。西さんのお連れ合いの意見も載せてあります。