riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline">「~に帰れ!…は禁句」の日本人のルーツ</span>

「~に帰れ!…は禁句」の続編…日本人の成り立ち

先日、古代史研究家であった上田正昭さんがお亡くなりになりました

ぼく、古代史…というか、歴史全般にさほど興味がなく、よって知識もないんですけども

そんなぼくでも名前は知ってた…というくらいに、上田さんは有名な方でした


上田さんが亡くなったことについては、いろんなメディアが揃って報じてましたが

例えば、NHKはこんな感じです…↓
古代史研究の第一人者 上田正昭さん死去(NHK:3月13日)

 日本の古代史研究の第一人者で京都大学名誉教授の上田正昭さんが、13日朝病気のため京都府内の自宅で亡くなりました。88歳でした。
 上田正昭さんは兵庫県出身で京都大学歴史学を学び、高校の教諭を務めたあと京都大学の教授や島根県にある古代出雲歴史博物館の名誉館長などを歴任しました。
 東アジアや世界との関わりのなかで日本の古代国家の政治や宗教を分析し、幅広い視野で日本の古代史研究を長年にわたってリードしてきました。また、国際的な人権問題や被差別部落の問題にも取り組み、京都市にある世界人権問題研究センターの設立にも尽力しました。
 こうした業績が認められ、平成15年には勲2等瑞宝章を受章したほか、平成21年には日本と朝鮮半島の歴史に関する研究で韓国政府から勲章を贈られました。
 上田さんは12日も京都府亀岡市で行われた式典に出席していましたが、その後体調が急変し、13日午前8時前、病気のため88歳で亡くなりました。

では次に、韓国の新聞(朝鮮日報)の記事をみてみましょう…
訃報:上田正昭さん88歳=「天皇百済人の末裔」と主張(朝鮮日報:2016/03/14)

韓日古代史研究第一人者

 日本の古代史研究の第一人者とされる京都大学上田正昭・名誉教授が13日、持病のため京都府内の自宅で死去した、とNHKが報じた。88歳だった。

 上田氏は韓国や中国など東アジアとの関係を重視する観点で日本の古代史を研究し、早くから「天皇百済人の末裔(まつえい)」と指摘した人物で、古代の朝鮮史研究でも業績を残した。その功労により、2009年には韓国政府から勲章を贈られている。

 上田氏は1965年、天皇百済人の末裔であると指摘したほか、日本の建国神話が朝鮮の檀君(伝説上の古朝鮮の王)神話から大きな影響を受けたとも主張した。このため上田氏は当時、日本の右翼から「天罰を受ける」「売国奴は京大から出ていけ」などという脅迫状を送り付けられた。

 また、日本の教科書での竹島(独島)に関する記述については「歴史は事実を正確に記述することが重要であり、政治理念に基礎を置いて記述してはならない」とし、教科書への記述に反対した。

 また、人権問題や在日韓国・朝鮮人に対する差別問題についても積極的に発言し、「朝鮮学校を支える会」の発起人も務めていた。

この記事のなかには、NHKのニュースが触れてないコトがいくつか書かれてあり、それは上田さんが…

・「天皇百済人の末裔である」と指摘していた

・「日本の建国神話は朝鮮の建国神話(伝説上の古朝鮮の王である檀君の神話)の影響を受けている」と主張した

…ということであり、これらの指摘や主張によって上田さんは右翼から脅迫を受けていた…というものです


加えて、上田さんは「竹島(独島)に関する政治理念先行の教科書への記述にも反対」してはったし、

昔、「帰化人」と呼称していたものを「あまりにも日本中心的な言葉だ」と批判し、

「渡来人」と言うべきだ…と主張され、現在ではそれが一般的な呼称として定着した…ということもありました

(現在、「帰化」という言葉をまだ使ってるのは、法務省(日本政府)ぐらいなもんです)


NHKがなぜこういう内容に触れなかったのか…と言えば、それはNHKの…というか、

広く、日本政府をも含めたお約束…というべき姿勢であると思いますが

(→つまり、不都合なことは伝えない…というお約束ね)

今回は彼らが不都合であると考えているらしい、

天皇百済人の末裔である」という上田さんの指摘について考えてみたいと思います


この指摘は右翼にとっては「聞き捨てならない話」であるのは確実であろうし、

右翼でない日本人にとっても、「心中穏やかではない話」なんじゃないかと思います

(なぜ心中穏やかでないのか…は、ここでは触れません)


しかしながら、わざわざ天皇を引き合いに出さなくとも、

現在の日本人のなかの多数派がどこから来たのか…を考えると、

現在の日本人の多数派は疑いなく「弥生系」の子孫であるところ

(→日本列島の先住民であった「縄文系」の子孫は明らかに少数派です)

弥生系の日本人の祖先とは、それすなわち弥生人であり、

弥生時代弥生人が大陸から(≒朝鮮半島から)大挙渡来してきたからそないなった…

つまり、現在の日本人の多数派(である弥生系)の祖先は大陸から渡ってきた…わけで

(→それは争いのない歴史の常識です)

そない考えると「天皇百済人の末裔である」と言われても、

ぼくなら、そら、そういうことになるやろな…と妙に納得するのであります


…なんてことを言っても、まだ、「それはオマエの考えに過ぎひん」と言う方がいるかも知れないので

2001年に国立科学博物館で開催された「日本人はるかな旅展」のネット展示を

ぼくがプリントしておいたものから、抜粋して書いてみます

(→ちなみに、このネット展示は残念ながら、今はもう削除されてありません)

日本人の原像:縄文人

日本列島では、4~3万年前の後期石器時代には人間が住み始めていたことは確実です。しかし、その時代の日本列島全体にどんな人々が住んでいたのかは、まだよくわかっていません。わたしたちの祖先の姿をはっきりと見ることができるのは、縄文時代からです。

縄文人の顔




新たな民族の進入:渡来系弥生人

およそ2300年前、西日本には、縄文人とはまったく異なった顔立ちや身体つきの人々が現れました。弥生系渡来人とよばれる人々です。彼らによって、水田稲作の技術と金属器の文化が大陸から伝えられ、人々の生活は大きく変化していきました。

渡来系弥生人の姿

渡来してきたと考えられる弥生人の骨が最初に見つかったのは、山口県日本海に面する土井ヶ浜遺跡です。彼らの人骨は、これまで発見されていた縄文人の人骨とはまったく違っていました。

弥生系渡来人の顔

頭骨をもとに復元した渡来系弥生人の顔は面長でのっぺりした顔立ちです。まぶたは一重で、目は細く、くちびるも薄く、ヒゲなども少なかったと想像されます。このような顔の特徴は、大陸の人々にも見られます。土井ヶ浜遺跡の弥生人が大陸から渡来してきた人々であったことは、ほぼ間違いないでしょう。



日本列島の先住民であった縄文人と身体的な特徴で異なる「新たな民族」、それが弥生人であり

彼らは大陸からやってきた…それは、「争いのない歴史事実」です

渡来系弥生人の広がり

弥生時代の中頃(紀元前後)になると、大陸から渡来民が大勢やってくるようになりました。しかし、弥生時代の遺跡から見つかっている人骨が、すべて平らな顔の渡来系弥生人というわけではありません。当時の日本列島には、縄文人の子孫たち(在来系弥生人)も住んでいました。

弥生人骨の発見地

弥生時代、西日本に姿を現した渡来系弥生人は、日本列島の東のほうでは、どこまで広がっていったのでしょうか。東日本でも、数は少ないですが弥生人骨はみつかっています。たとえば、歯の形態からは、関東西部の三浦半島や長野県にも渡来系弥生人が来ていたと推定されています。北海道でも渡来系弥生人の特徴をもつ人骨が一体だけ見つかっています。





九州・山口地域の弥生人骨の発見地

九州では、福岡平野佐賀平野などの水田稲作に適した地域から出土する人骨は渡来系弥生人です。一方、九州でも、長崎県五島列島などの山間部や、伝統的な漁労を続けていた海岸部の地域から出土する人骨は縄文人そっくりです。つまり、この時代には渡来系弥生人縄文人の子孫(=在来系弥生人)たちが「住み分け」をしていたようです。

この説明のなかでは「渡来系弥生人」という呼称と「在来系弥生人」という呼称が出てきて

縄文人」という呼称に置き換わってるのでちょっと混乱しますが

弥生人」とは、大陸から渡来してきた新しい民族…であると同時に

弥生時代に生きてた人すべてを指す言葉にもなってるので、

渡来系弥生人は「大陸からやってきた人たち」で、

在来系弥生人は「弥生人」という名称がついてるけど、それは縄文人の子孫…ということですね

渡来系弥生人の故郷を中国に求めて

渡来系弥生人は大陸のどこからやってきたのでしょうか。最近の調査により、水田稲作の発祥の地ともいわれている中国南部が有力視されています。黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人とよく似た人骨があいついで見つかっています。この時代の中国は、政治的には動乱の時代であり、いろいろな民族が入り乱れて戦いました。日本にやってきた渡来民は、このような動乱から逃れてきた人々だったのでしょうか。

ここでは、(渡来系)弥生人朝鮮半島を経由せずに現在の中国地域から直接日本に渡ってきた…

というような解説になっていますが、西日本と地理的に一番近い朝鮮半島のことがすっぽり抜けているのは

なんとも奇妙な解説ではないかと思います

…と書いてたら、次のネット展示には朝鮮半島のことが書いてありました↓

稲の道

稲は、中国の長江中・下流域で、約1万1000年前に栽培が始まったといわれています。その後、稲作は、この地域から北上して黄河流域まで一部伝わり、さらに東進して朝鮮半島には約4000年前ころに伝わりました。日本には、約2500年前に稲作の技術を身につけた人々が朝鮮半島から渡来して水田稲作が始まったとする考えが、時や石器あるいは人骨の研究から有力です。ただし、最近では、稲のDNAの研究によって、中国南部から直接渡来したという考え方が提唱されています。なお、縄文時代にすでに陸稲の稲作が一部にあったとする説が定着しつつあります。温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの混合により耐寒性のある早生ジャポニカの品種が誕生したと考えられています。

渡来系弥生人の多住地域であった九州北部と地理的に一番近いのは朝鮮半島南部…でありますから、

渡来ルートの大半はそこから…と考えるのが自然ではないでしょうかね

(もちろん、中国から直接渡来…というルートもあったでしょうけどね)

アイヌ・本土人琉球

日本列島に住んでいる私たちは、単一民族ではないことは明らかですアイヌ・本土人琉球人は、それぞれ長年にわたって独自の誇り高い文化を築き上げてきました。しかし、祖先をたどれば、お互いに無関係ではないことがわかります。日本列島に広く分布した縄文人と、現在の私たちとは、どのような関係にあるのでしょうか。

古墳時代以降の日本人

大陸からの渡来民の流入は、古墳時代の終わりの7世紀頃まで続きました。この間、大陸からの新しい文化や技術を持ち込んだ渡来民は、本州を東に進んで近畿地方に進出し、大和朝廷を築き、さらに関東、東北へと、先住の縄文系の人々と混血しながら進出していったようです。
このような混血により、古墳時代の末には、渡来系が主体となって現代の本土人の原型がほぼできあがったと考えられています。
一方、北海道と沖縄地域では、縄文系の人々が主体となって、それぞれ現代のアイヌ琉球人になっていったと考えられます。

このように、現代の本土人の原型は渡来系が主体となってできあがった…というのですから

ほとんどの本土系日本人の祖先は渡来系(=大陸からやってきた人たち)…ということになるわけでして

やっぱり「~に帰れ!」は(本土系)日本人が使うと自分に返ってくる言葉…ということになると思います


加えて、渡来系弥生人が中心となって大和朝廷を築いた…ということなので、

天皇は渡来系弥生人の末裔である」→「天皇百済人の末裔である」…となるのは

これまた、自然な流れ…ではないかと思います

(∵三国時代の朝鮮で、当時の日本(≒大和朝廷)と一番深いつながりがあったのは百済ですので)


ちなみに、昔、「日本は単一民族国家だ」…と、アホなことを言うたオッサン…やなかった、総理大臣がいてましたけど

それは単に「無知」なだけ…であります(…って、総理大臣が無知でどないすんねん!)

日本人の二重構造

日本人の顔を見ると、平坦でのっぺりした顔や立体的で目鼻立ちがはっきりしている顔など変化に富んでいます。しかも、地域によって、傾向が違っています。これは、縄文系の人々をベースに、渡来系の人々が地域によってさまざまな程度に混じり合うことによって、日本人が成立したためと考えられています。西日本の人々は渡来民の遺伝子を多く受け継いでおり、東日本の人々では縄文人の遺伝子がやや多くなっていることが、骨の形態から推定されています。

ここは「ベース」の説明が逆だと思います

もちろん、先住という面では縄文人がベースであったのでしょうけれど

人数の面では渡来系が多数派となったので、現代の「本土系日本人」のベースは渡来系弥生人…だと思います

(それは、現代本土系日本人の顔の特徴が、前出の縄文系と弥生系の顔の特徴のいずれにより近いのか…を考えれば
 一目瞭然だと思います)

アイヌ琉球人の由来

北海道に住んでいた縄文人の子孫たちは、渡来系の人々とはあまり混血することなく、自然と共生しながら独自の文化を築き、アイヌになっていきました。アイヌは渡来民によって北海道に追いやられたのではなく、もともと縄文時代から北海道に住んでいた先住民です。
かつては琉球王朝を築いた沖縄県の人々も彫りの深い顔立ちをした人が多く、どことなくアイヌに似ています。琉球人も、本土人に比べると、縄文人の遺伝子を濃く受け継いでいる可能性があります。

この部分のアイヌについての説明はそれでよいと思いますが、

琉球人を縄文人とだけ結びつけて語るのには違和感があります

(なぜなら、琉球人は南方からの渡来…という可能性もあるからです)

分子レベルでみた日本人のルーツ

日本人の起源については、最近著しく発達したDNA解析による研究もたくさんあります。日本列島には、人々の移住によって、いろいろな遺伝子が外から入ってきたようで、それぞれ違った傾向を示しています。その結果、さまざまな解釈が生まれていますが、たとえば、日本人の祖先集団は決して1つや2つではなかったという考え方(図1)、あるいは、琉球人は本土日本人や韓国人と似ているがアイヌとは似ていないという考え方(図2)、逆に、アイヌ琉球人は共に縄文人の子孫なので類似していて、その起源は中央アジアだろうという考え方(図3)などがあります。









このなかでは、図2の「遺伝距離」に関して

現代の本土日本人と韓国人との遺伝距離が一番近い(…というか遺伝距離ゼロ)というのが非常に示唆的です


…ということで、古代史にはあんまり関心がないぼくですが

NHKが選別報道をするので、思わず、長いエントリーを書いてしまいました…




昔、辛淑玉さんが、右翼から「朝鮮に帰れ!」という電話が来た際に

「じゃ、天皇もつれて帰る」と返した…という話を聞いたことがありますが

それは、こういうことを踏まえたもの…だったんですね


(いずれにしても、「~に帰れ!」は、いろんな意味で禁句でありましょう…)


転載元: mimiの日々是好日