riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">岩滑小学校のこどもたちも植えた彼岸花</span>

「岩滑」読めますか? 私もそれほど遠くに住んでるわけでないないのにすぐ忘れます(´_` )



新美南吉記念館の時計

橋や矢勝川にもキツネが待っています。

ゴンキツネ、素晴らしい表紙の絵本、あります。

南吉、あのような若さで亡くなられてお気の毒です。




蒸し暑くてびっくり、田んぼだったから?
名古屋より暑い?

こちらでは有名な半田、岩滑の200万本の彼岸花
はじめは一人の男性が植えました。先日テレビで紹介してました。

お名前等ご存じの方、教えてください。
ネットにはなかなか出てきません。

少数派が動かすのでしょう。一人から始まる

桜を植えていった岐阜のバスの車掌もいましたね、
ドラマにもなりました。

球根植えた小学生は斜面に球根植えるのは難しかったと、
お疲れさまでした。



半田には酢の里、新美南吉記念館、洋館、旧カブトビールの赤レンガ等見どころ一杯ですが、ここは新名所でしょうか。

あのごんきつねの作者の故郷です。

彼岸花群生は道を挟んで記念館の反対側です。

友人たちを洋館、酢の里、南吉記念館や南吉生家に案内しました。





田んぼアート、見逃しました、上のサイトの下の方にあります。



権現山を望むベンチの横にキツネも待ってます。






これから咲きます~









この近くに寿司ダイニングがあるのですが予約で一杯、

ゴンキツネの湯もお休み(´_` )

仕方ないので近くのレストランへ、

車から降りたら、あの懐かしいような牛糞干してるような臭い!

運ばれてきたパスタととんかつの大きさにびっくり

サラダも付いて安くてボリュームたっぷり

1時までモーニングやっていたのにしまった

半田のお寿司が食べたかったです。

今日はリハビリがあったので早く帰りました。

岩滑は「やなべ」と読みます。
連れ合いもナビで「い」で調べて出てこないと(笑)

追記
mimiさんのブログより
 寂れていく「ごんぎつね」の里を嘆き、童話の風景と同じように彼岸花でいっぱいにしよう
 と思い立った当時72歳の小栗大造さん。
 彼は、たった一人で、河川敷の草刈りを始め、彼岸花の球根を矢勝川沿いに植え続けました。

・・・周りから何と言われようと決してあきらめなかった大造さんのひたむきな姿に共感した町の人達が協力し、24年もの間、彼岸花を植え続けた結果、300万本の彼岸花が咲き誇る童話の風景が復活した・・・

愛知県半田市岩滑(やなべ)を流れる矢勝川の堤防では、毎年、秋の彼岸時季になると 真紅の彼岸花が延々と咲き競う。距離にして約2キロ。花の数は優に100万本を超える。 この日本有数の景勝地を造り出したのが、地元の小栗大造さん(84歳)だ。たった一人 ...http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00234/contents/006.htm

『ごんぎつね』の里ふたたび
 岩滑で生まれ育ち、花き園芸業を営む小栗さんが、矢勝川の堤防を彼岸花で埋め尽くそうと思い立ったのは、息子に代を譲り、仕事の第一線から退いた72歳のときのこと。
 「ここは、童話作家新美南吉の出身地でもあるんだが、その代表作品『ごんぎつね』には“墓地には、ひがん花が、赤い布(きれ)のようにさきつづけていました”との一節がある。ところが時の移ろいとともに、南吉が描いた墓地もなくなり、各所に咲いていた彼岸花もめっきり少なくなってしまった。ならばせめて、作品の舞台となった矢勝川の土手をキャバスとして、物語の風景を蘇らせようと決めた。そういうことです」
 5歳年上の南吉とは小さい頃に一緒に矢勝川で泳いだこともあった幼なじみ。少年期から短歌をつくり、古希を過ぎてもこんなメルヘンチックな夢を見るあたりは、南吉に影響された面も多少あるのかもしれないが、咲き乱れる彼岸花こそが、小栗さんにとっての故郷の原風景。それを取り戻すことが、残された人生の宿題のように感じていた節もある。
 こうして各所、各地に育つ彼岸花を探し歩いて、球根集めを開始。実を結ばない彼岸花は球根で増やすしか方法がないからだ。だがこの頃の矢勝川の土手道は、人の通れない葦(よし)などの雑草が一面に生い茂る荒れ地。掘り集めた彼岸花を植え付けるには、まずこれらを取り除かなければならなかった。根の強い雑草の根元周りを鍬(くわ)で掘り起こし、その深い根を鋸(のこぎり)で切り取る作業だけで2年がかり。
 「たった一人のその姿を遠くから見れば、けものが一匹はっているように見えたろう」と当時を思い出して苦笑するが、気が遠くなるような時間である。しかも心臓病の持病を抱える上、19歳のときのギックリ腰からの持病で、医師からは「骨はボロボロ。もう間もなく車イスですよ」との宣告もある。その身を押しての土手通いが続いた。
 「家内は“土手で死んどったらあかんよ”と心配したが、そうなったら名誉の戦死だわと応えて、矢勝川に出かけとった。やめようと思ったこと? 一度もない。それどころかだんだんと夢が膨らんで、堤防2キロに彼岸花を百万本咲かせたいと思うようになってね」