riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">又尾張藩が悪役(泣)超高速!参勤交代リターン</span>




今頃ですが「超高速!参勤交代リターンズ」を観ました。
ちょっと嫌な気分です(苦笑)

幕府から突然の参勤交代を命じられた弱小貧乏藩の奮闘を描いた時代劇コメディ「超高速!参勤交代」の続編。参勤交代の帰り道 「交代」に出た湯長谷藩一行が、宿敵である老中・松平信祝の画策によってさらなるピンチに陥る姿を描く。知恵と工夫でなんとか江戸への参勤を果たした湯長谷藩の藩主・内藤政醇らは、故郷に帰るため江戸を出発する。ところがその道中、湯長谷で一揆が発生したとの情報が入る。政醇らに打ち負かされた老中・信祝が、復讐のため湯長谷藩を壊滅させようと画策しているのだ。一揆を収めるためには2日以内に湯長谷へ帰らなくてはならず、政醇らは行きの倍の速さで走ってどうにか故郷へ帰り着く。しかし、城は既に乗っ取られてしまっており……。主演の佐々木蔵之介ら前作のキャストに加え、古田新太、渡辺裕之らが新たに参加。本木克英監督が引き続きメガホンをとる。

前作「超高速参勤交代」はテレビ鑑賞でした。
スピーディさ、小藩が知恵を絞り、走りまくり、権力に負けなかったのがとても良かったのですが。

内藤政醇  女性にも農民にも優しい殿様は31歳で亡くなっています。


リターンの方は尾張では名君の誉れ高い宗春や尾張柳生が敵役

悪役はメークが濃すぎて誰だかわかりずらい。声で分かる程度(苦笑)

米将軍吉宗は享保の飢饉で農民も苦しんでいるのに、税率を4公6民から、5公5民に引き上げ農民を苦しめたのに。米将軍と言うのも悪口らしい。
引用
宗春は幕府に対立する姿勢は全く見せていない。むしろ幕府の法令を遵守するように命じて、大切な形式はしっかりと守っている。一方、巡視などでは朝鮮通信使の姿・歌舞伎・能の派手な衣装で出向いたり、時には白い牛に乗って町に出たり、民衆が喜ぶ服装を工夫した。名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど規制緩和政策は、商人たちに受け入れられ、名古屋の町は賑わっていった。引用終わり

尾張の宗春は芝居小屋や遊郭を奨励し発展させた、吉宗は倹約令は出すが、年貢はあげるし経済的センスなし。

松平信祝も実在の人物で子孫だったらこんなに悪役に描かれては立ち上がれないかも。


1735年、徳川8代将軍・吉宗の日光社参が行なわれることになりました。13万人の行列は先頭が午前2時に出発し、最後尾は午前10時の出発になる程の10時間の差がある大行列でした。将軍家の威信を見せつけるためのものですが、約20万両(1両7万円計算で140億円)かかり、それまでの享保の改革の倹約を台無しにするものでした。名君と言われる吉宗ですが、経済関係的には、あまり良かったとは言えません。米将軍というのも実は悪口です。享保の飢饉で農民も苦しんでいるのに、税率を4公6民から、5公5民にしています。(流石に、飢饉の時は、見かねた代官が減税をしています。)そのせいで、今回起こるヤラセ一揆ではなく、通常の一揆も日常茶飯事でした。あと、町人には年貢を納める義務もなかったと言うのも変な話です。その多くが農村から流れてきた者で、結婚するためには、田舎に帰る必要がありました。儒教の流れを組む朱子学に、商人や職人から税を取ってはいけない教えがあったからだそうです。だから、時代劇で、商人がお金を持っているのは当たり前のことです。そして、吉宗の経済音痴は孫の松平定信に受け継がれ、歌舞伎座を潰そうと「江戸郊外に移転させよ」と命令した時、「遠山の金さん」が当時、栄えていた吉原と浅草の中間地点の銀座に移動させ、現在も存続しています。この定信の後に出てくるのが田沼意次です。そして、その頃の時代を描いた映画が「殿、利息でござる」でした。

歴史に埋もれているけれど幕末の尾張の藩主もなかなかの人だったとか。
英雄たちの選択「明治維新 知られざるデザイナー ~尾張藩主 徳川 慶勝~」.

弟に15代藩主・徳川茂徳会津藩主・松平容保桑名藩主・松平定敬などがあり、慶勝を含めて高須四兄弟と併称される。

写真に懲り名古屋城等も撮影している。

一番右が慶勝でこの当時50歳ぐらい
今なら70以上に見えますが。


高須四兄弟(明治11年9月撮影)
左から松平定敬松平容保、徳川茂徳、慶勝


この頃から、欧米から伝来した写真術に興味を持ち、写真を撮影している(当然ながら当時は全てのプロセスを自分で行わなければならなかった)。撮影した写真の中には明治3年(1870年)に取り壊された名古屋城二の丸御殿、幕末の広島城下、江戸の尾張藩下屋敷などの写真が1,000点近く残されており、歴史的史料価値の高い写真も数多い。