riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">これこそ政治家伊奈半左衛門の民への献身</span>

配役:伊奈半左衛門忠順 役:佐渡山順久

エピソード1 エリート官僚と未曾有の大災害


復興を託された伊奈半左衛門(銅像
伊奈半左衛門忠順(いなはんざえもんただのぶ)は、江戸時代に関八州の幕府領を治めた関東郡代で治水や干拓工事のエキスパートでした。宝永4(1707)年、巨大地震が日本列島を襲い、その49日後に富士山が大噴火します。この大災害の復興担当の代官に任命されたのが伊奈半左衛門でした。
 

エピソード2 復興を妨げる驚きの真実

特に噴火の被害が大きかった富士山麓。この地域の復興を重点的に行うため、半左衛門は小田原に前線指揮所を設け任務に取りかかります。しかし、幕府の資金流用など周囲の身勝手な行動が、復興は難航。餓死者が続出するなど一刻の猶予もない被災地の窮状とそれに直面した半左衛門の苦悩。

資金不足が復興をいっそう困難にした(再現)
 

エピソード3 窮地の復興代官 起死回生の一手


幕府高官に訴える半左衛門と被災地の名主たち(再現)
困窮を極める被災農民たちに、半左衛門は考え付く限りの支援策を打ち出します。しかし「完全な復興」を遂げるには、膨大な火山礫に埋まった田畑の再生が必須でした。そのための資金をどうするか?どうすれば火山礫を除去できるのか?数々の難題を解決すべく、半左衛門は前代未聞の行動に出ます-。
 

この回ゆかりの地は・・・

参考文献

『富士山宝永大爆発』(永原慶二 集英社新書)      
『1707 富士山宝永噴火 報告書』(中央防災会議 ※ネットで入手可能)
小山町史』(静岡県小山町) 
『富士山噴火とハザードマップ』(小山真人 古今書院
『富士を知る』(責任編集・小山真人 集英社


NHKBSプレミアム「英雄たちの選択」で宝永噴火と伊奈忠順特集!

富士山宝永噴火口

NHKBSで関東郡代伊奈忠順を特集します。
NHKBSプレミアム
「英雄たちの選択」
放送3月3日(木)20:00~21:00
再放送3月10日(木)8:00~9:00

内容
江戸中期に起きた富士山の大噴火。膨大な火山灰で苦しむ被災民に対し、幕府の方針は自力復興。このまま民を見捨てていいのか、現場の責任者となった代官の葛藤と行動とは?
江戸中期に起きた富士山の爆発的大噴火。降り積もる大量の火山灰によって一帯の村々は存亡の危機に立たされる。それに対し幕府の方針は被災民による自力復興というものだった。そうしたなか、復興の責任者に任命された幕府代官・伊奈忠順(ただのぶ)は現地を視察、飢えなどに苦しむ人々の実情を知る。このまま苦しむ民を見捨てていいのか。伊奈は幕府の方針と被災民との間で葛藤する。果たして伊奈はどんな行動を取っていくのか?
【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】小山真人,あさのあつこ,宮崎哲弥,福田千鶴,【語り】松重豊


宝永4年富士山噴火之図
 
  宝永4年(1707年)11月23日、富士山はその噴火史上最大級の噴火をしました。貞観の噴火(864年)以来843年ぶりの巨大噴火です。地下20㎞のマグマだまりが滞留することなく上昇したため爆発的な噴火となりました。噴煙の高さは上空20㎞に上り、溶岩の流失はなく、大量の降砂・降灰をもたらしました。噴火は16日間続き、12月8日に収まりました。噴火による直接の死者はほとんどいませんが、富士東麓一帯を大量の焼砂が覆い、被災地は一切の生活基盤を失ってしまいました。


  伊奈忠順は寝食を忘れて孤軍奮闘しますが、復興は困難を極めます。特に降砂が深刻だった御厨地方では離散するもの餓死するものが続出し、悲惨な状況になっていました。忠順はこの状況を座視できず、幕府の貯蔵米がある駿府の米蔵を、掟を破って独断で開き、窮民に分配してしまいます。やがてこの件が幕府に知れ、役を解任されると忠順は翌年正徳2年(1712年)2月29日に急死します。一説によると。責任を取って切腹したと伝えられています。

  復興の道はその後長きにわたって続きますが、御厨地方ではこの恩義を代々伝え、忠順は“御厨の父”として当地で不忘の人となりました。


6月に前進座の「怒る富士」を観ました。新田次郎原作
政府に背いて人々を救った伊奈半左衛門を描いていました。

これからもっと未曾有の災害が起きるでしょう。



今の政権では安心して住めません。

御厨の農民はこのままでは餓死すると
伊奈に陳情!直接窮状を見てくれと。

行動しなければ変わりません。

余裕なかった伊奈も黙って見ていられなかった。

48万両もの莫大な復興資金が全国から集められていた。

しかし、綱吉の側室のための御殿建築、赤字の穴埋めなど
に使用された!

伊奈家はここまでやってこられたのは民衆の支持があったえからと
農民たちを救う事になる。

この時代の百姓は末代までその場に住み続けるものだった。

村を離れると身売り奉公になる、人権自体を失う、傘もさせない。

下駄も履けない身分になる。

伊奈は村の代表に勘定奉行荻原重秀
の所で窮状を訴えさせた。
身分制度の厳しい時代に
又半左衛門は
独断で駿府紺屋町の幕府の米倉を開き、
1万3000石を村々の飢民へ分配した



半左衛門とは

業績[編集]

5代将軍・綱吉の50歳の誕生日を記念して架けられた。

宝永の大噴火[編集]

宝永4年(1707年)11月に発生した富士山の噴火は実に620年ぶりの空前の大噴火で、現在も富士山の東南斜面に巨大な噴火口を残し、盛り上がった部分は宝永山と呼ばれる。約半月にも及んだ噴火により、小田原藩の全領約10万石のうち、6割が大量の火山灰に埋まり、遠く江戸でも2寸積もったという記録が残る大被害となる。
忠順はこの噴火に対し、砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行と呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられ、主に川底に火山灰が堆積していた酒匂川の砂除け、堤防修復などに従事した。しかし、もっとも被害の酷かった駿東郡足柄・御厨地方へ幕府の支援が一切行われず、59もの村が「亡所」とされ、放棄され飢餓に苦しむ者が続出している悲惨な状況となっていた。忠順は酒匂川の改修工事に被害農民を雇い入れることで生活の安定を図り、農地を回復させるための土壌改良にも取り組んだ[2]。忠順は復興開始から4年後、事業半ばで死去。墓所は源長寺(現在の川口市)。戒名は嶺頂院殿松誉泰運哲翁大居士。
忠順の救済により救われた農民たちは、その遺徳を偲び慶応3年(1867年)に祠を建て、その後、須走村(現在の静岡県駿東郡小山町須走)に伊奈神社を建立し忠順の菩提を弔った。伊奈神社には忠順の像も立つ。大正時代になって忠順の業績を称えて従五位下に叙せられている。
なお記録はないが[2][3]、「忠順は見て見ぬふりができず、独断で駿府紺屋町の幕府の米倉を開き、1万3000石を村々の飢民へ分配した。結果的にこの無断行為を咎められ、忠順は罷免。後に切腹を命じられた」とする伝承が駿州御厨地方に残されている。