riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">猫を抱く美少女は誰?今晩もEテレで暮らしと憲法、夜8時から~</span>


この真ん中のネコを抱く可愛い少女は誰でしょうか
ワンちゃんもいます~

ジェームス三木脚本の舞台「真珠の首飾り」を観て彼女を知りました。
1998年初演青年劇場

愛川欽也さん、伊藤真さんが寄稿しています↑


何と23年間戸籍がなかった34歳の女性が紹介されました。
戸籍のない人は700人近い

戸籍がないと予防接種出来ない、学校に行けない、パスポートや保険も無し

34歳の女性は少女の頃、歯が痛くなり歯科に行って健康保険がなくて診てもらえなかったと。

学校に行けないなんて、将来が危ない

え―、親は?

彼女の母は暴力振るう夫から逃れて他の男性と暮らし、
その女性を産みましたが

離婚できないので、娘には戸籍がない。

離婚するためには夫と連絡取らなければならない。

正式に離婚できないと、娘は暴力夫の子にみなされます。
実の父は他にいても。



日本国憲法の「男女平等」を起草した ベアテ・シロタ・ゴードンさん Q憲法にどんな思いを込めましたか?

2007年5月1日
日本国憲法の「男女平等」を起草した ベアテ・シロタ・ゴードンさん

 3日で施行60年を迎える日本国憲法。日本女性の地位向上の願いを込めて男女平等条項を起草したのは、GHQ民政局のベアテ・シロタ・ゴードンさんでした。記者が以前、自宅を訪ねて行ったインタビュー内容を、歴史の貴重な証言として紹介するとともに、施行60年にあたってのメッセージを寄せてもらいました。 記者・豊田洋一

地位向上願い 権利を女性に

 豊田 なぜ憲法草案起草にかかわることになったのですか。
 ベアテ 私は一九四六年の一月から、連合国軍総司令部(GHQ)民政局行政部の政党課でリサーチャーとして日本女性の政治運動や小政党を調査していました。二月四日、民政局長のホイットニー准将が私たち局員を呼んで「マッカーサー元帥から憲法草案をつくるよう命令がありました」と伝えたのです。当時、政党課にはロウスト中佐、ワイルズ博士と私の三人がいて、行政部長のケーディス大佐は私たち三人に「人権のことを書きなさい」と割り振りました。草案は一週間でつくらなければなりません。三人で分担することにして、ほかの二人が私に「あなたは女性だから、女性の権利を書けばいいのではないですか」と言ったのです。
 豊田 どんな気持ちで引き受けましたか。
 ベアテ 憲法草案を書くなんて思っていなかったから、最初はびっくりしましたが、女性の権利を書くことになり、すごく喜びました。私は五歳半から十五歳半まで日本にいて、当時の日本女性には権利が全然なく、その苦労を詳しく知っていましたから、女性にもいろんな権利を与えたいという気持ちで草案づくりを始めました。憲法の専門家でない私は、いろんな国の憲法を参考にしようと、ジープに乗って東京の図書館を回り、本を借りてきました。草案づくりは極秘で、一カ所だけ行くとよくないと思い、三カ所で十か十一の憲法を見つけ出して事務所に戻ったのです。
 豊田 草案づくりでは、どんなことを重視しましたか。
 ベアテ 集めてきたスカンディナビアや、ワイマール、ソ連憲法には女性の基本的な権利だけでなく、社会福祉の権利もちゃんと書いてあったので、憲法にこれを入れたいと思いました。民法を書くのは、官僚的な日本男性ですから、憲法にちゃんと入れないと、民法にも入らないと思ったんです。民法を書く人が縮められないよう草案に詳しく書きました。
 豊田 そのまま草案になったのですか。
 ベアテ ケーディスは「ベアテさんは日本女性のために、米国憲法以上の自由を書きましたね」と言ってくれましたが、「基本的な男女平等はいいが、社会福祉憲法には合わない。そういうものは、民法に書かなければいけない」と認めてくれません。私、泣いちゃったんですよ。反論したんですが、まだ二十二歳の私には大佐ほどの力はなく、戦ってもどうにもならない。不満でしたが、基本的権利にとどめることを了承しました。
 豊田 日本側はGHQの草案をすんなり受け入れたのですか。
 ベアテ 日本政府には「これを基本に日本の憲法をつくってください」と草案が渡されていました。一カ月後、日本政府代表者とGHQとの会議があり、私は通訳として呼ばれました。会議は午前十時から始まり、すぐに私たちの草案を議論しているんじゃないことが分かりました。日本側は全く違う憲法案をつくってきたのです。ですから、日本側の案を英訳したり、ケーディスの返事を日本語に訳したり、議論があっちこっちに飛んで進みません。そうしたら、(当時外相だった吉田茂元首相の側近)白洲次郎さんが、書類をテーブルに置いて、どこかに行ってしまいました。それは私たちの草案の日本語訳でした。ケーディスは、この草案をベースにしようと言い、それ以降、議論が少し楽になりました。
 豊田 その後、議論は順調に進みましたか。
 ベアテ それでも天皇制は、ずいぶん時間がかかりました。日本側は天皇の権限を強くしたかったし、私たちは弱くしたかった。四、五時間はその議論だけでした。でも、私たちは部屋から出られません。陸軍から出された缶詰をそこで食べて、議論を続けました。
 豊田 ベアテさんの男女平等はどうでしたか。
 ベアテ 翌日の午前二時ごろ、男女平等の条項が(議題に)出てきました。日本側は最初「これは日本の歴史、文化に合わない。憲法には入れられない」と言ったので、激しい議論になりそうでした。でも、ケーディスはこう言ったんです。「女性の権利はシロタさんが書きました。通しましょう」。日本側はそれを聞いてびっくりしたと思いますが、私は通訳が早く、日本側からも信頼されていたので、日本側も最後には男女平等を受け入れてくれました。
 豊田 九条の戦争放棄規定は問題にならなかったのですか。
 ベアテ それはマッカーサーが「入れなければならない」と、最初から命令していたので、日本政府代表者との協議では全然、議論にならなかったと思います。ただ、ケーディスは亡くなる前、私に「九条の最初の草案には、侵略戦争だけでなく、自衛戦争もやってはいけないと書いてあったが、自分が消した」と言っていました。彼は、どの国でも自衛権はあると思っていたんです。戦争放棄条項はマッカーサーかホイットニーか、誰が書いたのかは分かりません。でもケーディスが自衛戦争の放棄を消したことは確かです。
     ◇
 このインタビューは二〇〇四年四月二十日、ニューヨーク・マンハッタンのベアテさんの自宅で行われました。

ベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon, 1923年10月25日 - 2012年12月30日) は、ウィーン生まれでウクライナユダヤ人(ロシア統治時代)の父母を持ち、少女時代 に日本で育った米国国籍の舞台芸術監督...
    ◇
 1923年、ウィーン生まれ。29年、作曲家・山田耕筰の招きで東京音楽学校(現・東京芸大)に赴任したピアニストの父、母とともに来日。少女時代を東京・乃木坂で過ごす。39年、米留学。卒業後、米タイム誌リサーチャーなどを経て、45年、GHQ民政局スタッフとして再来日。日本国憲法の人権条項起草にかかわる
著書に「1945年のクリスマス」(柏書房)など。ニューヨーク在住。この本予約しました。



この本は、ベアテさんが1945年のクリスマス・イヴの日に、日本に帰る風景から始まります。

アメリカ、イギリス、ドイツのワイマール憲法、フランス、ソ連スカンジナビア諸国の憲法に関する書籍を、焼け残った図書館と大学を回って集め、読める六か国語を駆使して特に参考になるものを見つけ、確固たる信念を持って「憲法」の人権条項の部分の草案を書かれました。


本書を読み進めて行く途中で、何か所も付箋を貼る箇所が出てきました。以下はその一部です。

「とにかく、戦勝国の軍人が、支配する敗戦国の法律を、自分たちに都合よくつくるのだなという傲慢な雰囲気はなかった。自分たちの理想国家をつくる、
といった夢に夢中になっていた舞台だったような気がしている。」(p.177)
軍人と言っても、本職は弁護士、大学教授、ジャーナリスト、医師、実業家などで、医学や理工系から文化系まで幅広く学んだ人が多い。
ラウエル氏は高野岩三郎氏を中心とする憲法研究会
の草案に好意的な説明をつけて報告している。

またベアテさんは、
軍国主義時代の日本で育った私は、心配だったのだ。日本民族付和雷同的性格と、自分から決して意見を言いだそうとしない引っ込み思案的な性格、しかも過激なリーダーに魅力を感じる英雄待望的な一面は、昭和
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夫婦で歩く時も夫の後につき従う妻、客が来ても給仕するだけで一緒に食べることはない、日本の女性には社会的役割もなく、離婚もできない。夫の浮気は甲斐性とされ、妻が浮気すれば姦通罪、レイプされても堕胎もできない。好きな人と結婚できない、財産相続もできない、何の権利もない日本女性の境遇に心を痛めていたベアテさん

とってもチャーミングな女性です。

最初の写真でネコをだいてるのはベアテさん

憲法に男女同権を盛り込もうとしたベアテさんは日本の保守層から
「それは日本に会わない」等とことごとく拒否され涙をのみました。

それでも憲法24条に両性の平等の条項を起草してくれた恩人です


今晩の「外国人」も8時からです。

第一回 女性 
第24条・婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し……
法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければなりません。
男女平等がうたわれたこの第24条は、当時、世界でも類を見ない高い理想を掲げた内容でした。この条文の草稿を書いたのが、GHQのスタッフだったベアテ・シロタ・ゴードンさん(当時22歳)。幼少期に10年ほど日本で暮らしたベアテさんは、財産権・選挙権などの「権利」を持たず、結婚も本人の意思だけでは決められない日本女性たちの状況を見聞きしていました。70年前に生まれた憲法の男女平等の理念をもとに戦後女性が獲得した権利と、いまなお抱え続ける生きづらさ。貧困や様々な困難を抱える女性の暮らしから憲法を見つめます。