riboni5235’s diary

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残念、石橋湛山が続投していれば。

<語り継ぐ 戦後72年> 「黄門様」が石橋湛山の遺志説く

2017/8/8 朝刊
岸信介首相(当時)(右)と語る石橋湛山=1957年12月

◆「強者に正論」こそ政治家 元秘書の渡部恒三さん

 

 太平洋戦争前、戦中の日本に、国策と正反対の植民地の放棄と反軍拡を唱えた硬骨のジャーナリスト・石橋湛山(たんざん)(一八八四~一九七三年)。戦後は政治家に転じ、自民党総裁選で安倍晋三首相の祖父・岸信介を破って首相となった。秘書を務めた元衆院副議長の渡部恒三さん(85)にインタビューし、その生き様と、「安倍一強」とも言われた昨今の政治状況について聞いた。
 
 
私の生涯で政治的に最も感動した場面が、石橋湛山先生が総裁に当選、首相になった一九五六(昭和三十一)年十二月の自民党総裁選なんだな。場所は東京、日比谷公会堂。たった七票差で、今の安倍晋三首相のおじいさん、岸信介元首相を破った。私は当時、早稲田大の大学院生で、湛山先生の私設秘書、つまり、かばん持ちをやっていて、一緒に会場で万歳したよ。
 湛山先生の勝利がなぜ、感動的だったのか。前身のジャーナリスト時代から貫かれていることだが、徹底して理性的に自説を主張し、歯に衣(きぬ)着せないんだ。総裁選でも、衆院選で選挙区に入っても「よろしくお願いします」なんてひと言も言わないし、頭も下げない。代わりに、秘書の私が有権者にしかられた。
 湛山先生は、ケインズ経済学に基づく積極財政、中国を中心にしたアジアとの友好、平和主義をとうとうと主張する。役人出身で、戦前に閣僚を務めた岸を、誰にもこびない正論が破った。今こそ戦後日本の新しい船出だ、と思えて、涙が出たよ。
 わずか二カ月後に病気で退陣して、岸に後を譲った。あれで、日本の政治は十年は遅れたと思うね。歴史が証明している通り、経済も外交も、後にほとんど湛山先生の言うとおりになった。
 (全国的な反対運動があった)六〇年安保の時の岸、そして今の安倍首相との比較で、言っておかねばならないのは、湛山先生が民衆を抑え付ける発想を一切持たず、言論の自由を極めて重く見ていたことだ。
 満州事変(一九三一年)の翌年生まれの私は、少しは戦前の雰囲気を知っている。軍が力を持ち、国民の大多数もアジア進出に賛成したあの時代、湛山先生はほぼ一人で国策と正反対の論陣を張った。経済論と現地の民衆の感情を根拠に満州(現在の中国東北部)、朝鮮、台湾など植民地の放棄を主張し、軍拡に反対した。
 かばん持ちになって自宅を訪ねると、襲撃対策の名残なのか、書斎の扉に分厚い鉄板が張ってあった。由来を聞いたら、にやりと笑うだけだったが、「ああ、この人は言葉に命を懸けている」と思ったな。
 共謀罪(の趣旨を含む改正組織犯罪処罰法)を導入し、特定秘密保護法で国民の知る権利を制限した安倍首相の姿勢を見たら、湛山先生は烈火のごとく怒るに違いない。筋の通らない、国民をばかにしたような国会答弁も、同じだ。私が閣僚をやっていたころは、野党から的外れな質問が来ても「国民に分かりやすく実情を説明する機会をいただいた。ありがとうございます」と思って、懇切丁寧に答弁したものだが、最近の自民党はどうかしてしまったのかな。おごりきっているし、それを何ともできない野党も情けない。
 湛山先生が今、健在だったら。ジャーナリストなら、しつこく正論で批判の筆を執っただろう。政治家なら刺し違える覚悟で安倍内閣と対峙(たいじ)したに違いない。
 (聞き手・中野祐紀)
 <石橋湛山> 1884年、東京生まれの第55代首相。新聞記者、陸軍志願兵を経て、経済誌「東洋経済新報」の記者となり、後に社長も務めた。日本が海外進出を加速した戦前、国策に反する平和的な貿易立国と植民地放棄を求める「小日本主義」を社説などで展開。戦後に政界入りし、蔵相、通産相などを歴任した。1956年12月に首相に就任したが、急性肺炎で倒れ、65日間で退陣。当時外相の岸信介が後任に就いた。73年、88歳で死去。

 <わたなべ・こうぞう> 1932年、福島県生まれ。早稲田大大学院在学中、大学の先輩だった石橋湛山の私設秘書を務める。69年に衆院初当選。厚生相、自治相などを歴任し、自民党竹下派の重鎮「七奉行」と称された。93年に羽田孜(元首相)、小沢一郎自由党代表)らと離党して新生党を結成し、新進党民主党にも参加。96~2003年に衆院副議長。06年には73歳の高齢で同党国会対策委員長に就き、「政界の黄門様」の愛称で知られた。12年に政界引退。