学ぶべき200年の平和世界遺産朝鮮通信使と偉大な山田方谷
学ぶべき200年の平和世界遺産に登録
昔歴史勉強した時、秀吉の恥ずべき侵略に対し江戸時代になると平和外交に転換して、実現した朝鮮からの使いを待ちわびて文化を学んだと知りました。
もう一つの理由はトンイ。 現在NHKBSで放送している韓国時代劇ですが、この物語でトンイの夫である第19代朝鮮王粛宗(スクチョン:숙종)の御代の話であることです。
これを読み込んだ校歌を地元の方が歌ってくれました。
同じアジア人同士で憎み合って戦争すれば、
白人戦争屋が喜ぶだけです。平和外交に学ぶべきでしょう。
天空の城の備中松山城
農民出身の山田方谷が成し遂げた偉業
民あっての国
磯田さんがこの時代にこそ知ってほしい人物と力、入ってました。
4歳の立派な書が残っています。
暗殺計画もあったのに
藩校の先生で藩士や殿のちの老中板倉に信頼され、彼も殿を助けた。
明治政府の依頼も断り晩年こしに乗ってまで自分の塾に教えに行くのが喜びだったという、教師の鏡です。
老年になっても新しい知識を取り入れて
塾は若者が引きも切らさず学びに来て6棟にもなった!
珍しい人名の駅。[方谷駅」
「命に代えても!」、不惜身命の藩政改革を決意次代藩主は"救国の駿才"、その後継者育成に己を尽くすこの救国の駿才を、必ず名君にする――。次代藩主・勝静(かつきよ)の学問の侍講を命ぜられた山田方谷は、己を尽くして後継者育成にあたり、勝静との絆を深めた。
「誠を尽くすは天の道」、死を見つめ成長した方谷の確信急展開する人生、「濃密な学びと思索」が方谷を練磨 一度は学問の道を閉ざされかけたが、山田方谷は諦めずに精進し続け、藩校への出入りが許可された。方谷の人生が急展開し始め、とても大きな成長の機会を得た。
「治国平天下」、強烈な願望が"神様"を育てたわずか8年の藩政改革で600億円相当を生み出す 抜擢されて5万石の藩の元締役として、嘉永2年(1849年)に藩政改革、財政改革を始め、安政4年(1857年)に完成を見た。方谷は改革の8年間で、借金10万両(約300億円)を返済し、余剰金10万両を作ったのである。大変な力量と言わざるをえない。
なぜ、こんな短期間に成功できたのであろうか。
この成功の秘密を、彼の改革手法や経営手法のみならず、全人格、全人間力に光を照射しながら、本連載の大きな柱として解明してゆきたい。
あの時代にブランド戦略、中抜きバリューチェーン構築 彼の根本思想は「武士も農民も慈しみ愛情をもって育て、藩士・領民全体を物心ともに幸福にする」「領民を富ませることが国を富ませ活力を生む」という「士民撫育」の考え方である。
そして、彼の物事に向かう基本姿勢は「至誠惻怛(しせいそくだつ)」である。「真心(至誠)と悼み悲しむ心(惻怛)」を人間としての正しい道、最高の行動規範とした。
産業振興では、方谷は米の作高に頼らない産業を興した。その一例であるが、特産品に「備中」の名を付け、ブランド戦略で全国に展開した。特に、備中くわ(爪3本のくわ)は大人気商品になったという。
さらに、販売する製品や商品は大坂(現在の大阪)を経由させないで、藩の船で直接江戸まで運ぶようにした。生産・流通・販売を一体化させることで中間業者を廃し、高収益を獲得できる藩直営のバリューチェーンを構築したのだった。
この改革の成功によって他藩からも勉強に来る人が後を絶たなかったという
激動の幕末、備中松山城を無血開城 その後、藩主勝静が幕府の老中になったため、方谷はその補佐役として中央政界でも活躍した。
方谷の藩政改革の成功は、藩主を日本有数の名君にし、ついには幕府の老中、そして老中首座(現在でいえば総理大臣)にまでなさしめたといえよう。
しかし、幕末の激動の中、様々な手立ても空しく、幕府は朝敵となって倒壊し、譜代の備中松山藩も残念ながら朝敵になってしまった。
晩年は、長瀬塾や小阪部塾、閑谷精舎(閑谷学校)などで教育者として後進の育成に尽くした。方谷の門人は、三島中洲(大正天皇侍講、二松学舎大学創設者)や河井継之助(越後長岡藩家老)をはじめ全国に1000人以上といわれた。
明治維新後は、先にも述べたように新政府からの再三の出仕要請があったが、一民間教育者として73歳(数え)の天寿を全う。備中聖人とも称された。
父母の願いと志を貫いた立志の人生だったといえよう。
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戦後の政治家・財界人の精神的指導者とされる陽明学者の安岡正篤は、著書の「先哲講座」の中で、「古代の聖賢は別として、近世の偉人といえば、私はまず山田方谷を想起する。この人のことを知れば知るほど、文字通り心酔を覚える」と述べて尊敬し、また「方谷のような達人・実際家の信念や論説や考え方を学ぶことが現代の様々な課題を解決するのに大変参考になる」と述べている。
実際の生きた経済が分かる、計数に強い、しかも確かな国家観を持っている。このような方谷を改めて学ぶことは、21世紀の今においても、多くの課題を解決する有用なヒントとなるのではないだろうか。
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