riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

太平洋戦争から奇跡の生還を果たし日本の超高層建築時代を切り開いた池田武邦

録画少し残っていて思い出しました。
でもなんか肝心な事忘れているような…
 
 素晴らしいお顔でしょう。
しかしある時期から超高層ビルの建設に疑問を抱き、長崎オランダ村ハウステンボスなど環境共生型のテーマパークの設計に携わりました。その後は21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。戦中、戦後の日本を駆け抜けてきた御年92歳の日本を代表する大建築家にこれまでの人生から得たこと、そしてこれからの未来を生きる人々に伝えたいことを語っていただきました。
 

戦地に取り残された兵士のために

──終戦後はどういう任務に就いたのですか?
まだ南方の戦地に残された陸軍の兵士がたくさんいたから、彼らを船で日本に連れて帰る復員局の復員官に任命されました。船がほぼ全滅してたから、残ってた「酒匂」(さかわ)という矢矧の姉妹艦で、戦争が終わる直前に完成した軽巡洋艦を復員船にして、分隊長として南方の島に行ったんだ。
その時の航海は忘れられないね。戦争中はちょっとでも海に出れば敵の潜水艦や航空機がいつ襲ってくるかわからないから一瞬も気が休まらず、常に神経がピリピリしてた。でも戦争が終わったらそれがないわけだ。攻撃がない航海、こんな楽なものはないですよ(笑)。針路さえ決めればそのまんまただ進んでいけばいいんだから安心して航海ができる。平和な航海ってなんていいんだろうって思った。その時の航海が非常に印象に残ってるね。
 
建築学科を選んだ理由はもう1つある。幼少期から成人するまで住んでいた藤沢の家が、早稲田大学の建築科を出た僕のいとこが設計した家だった。その家は地味な造りだったんだけど、自然の特性をうまく利用していて夏は涼しく、冬は暖かい快適な家だったから大好きだったんだ。だから海軍士官以外、知っている職業は建築家だけだったから建築科を選んだというのはあるね。
さらに言えば、沖縄海上特攻で矢矧が沈んで海を漂流していた時、その藤沢の実家の風景が脳裏に浮かんだんだよ。夏、障子を開けると川辺から涼しい風が吹き込んでくるんだけど、その風を感じながらただ畳の上で大の字に寝転ぶのがなんとも気持ちよくてね。その感覚が蘇ってきて、もう一度実家のあの畳の上に寝転びたいと思った。そういうことももしかしたら建築の道へ進む1つのきっかけになっているのかもしれないね。
 
日本初の超高層ビル霞が関ビル」が建設されたのは1967年。その設計チーフを務めたのが今回登場していただく池田武邦さんです。池田さんは二十歳の時、海軍士官としてマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、そして沖縄海上特攻と太平洋戦争後期の三大海戦のすべてに参戦し、生還。その後建築家になり、日本設計を創立し、霞が関ビルを皮切りに京王プラザホテルや新宿三井ビルを中心となって設計。しかしある時期から超高層ビルの建設に疑問を抱き、長崎オランダ村ハウステンボスなど環境共生型のテーマパークの設計に携わりました。その後は21世紀のあるべき日本の都市や建築を追求し、無償で地方の限界集落の再生や町づくりにも尽力。戦中、戦後の日本を駆け抜けてきた御年92歳の日本を代表する大建築家にこれまでの人生から得たこと、そしてこれからの未来を生きる人々に伝えたいことを語っていただきました。
[前編] [中編] [後編]
 
吉田兼好も言ってます。
冬の寒さは建物の工夫や厚着をするなどしてなんとかなるけれど、夏の暑さはどうにもならない。だから、住まいづくりの基本は、夏の暑さ対策を大切にしなければいけない。
 
それなのに、窓のない要塞のような家、隣からの視線をさけるつい立てのような境の建造物、観ると息がつまりそうです。
 
今の自宅は幸い、東西南北に開かれているので西風も助かります。
 
知多半島に両親が建てた家は西側は壁ばかりなので泊まったお客さんが朝飛び出してくるほど暑かった。
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霞ヶ関ビルをはじめ、京王プラザホテル、新宿三井ビル…日本高層建築の黎明をリードした池田武邦。ある吹雪の日を境に、ハウステンボスアクロス福岡など自然の摂理に従った建築へと180度の方向転換をする。彼は何を見つめ、何と戦ってきたのか。
 
後年住まわれたお宅は茅葺の家!
岐阜にも良い循環の図書館があるとか。