田中一村記念館
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あやまる岬から奄美パークの一村記念館へ
田中一村記念美術館について田中一村記念美術館は、奄美の自然を描いた日本画家田中一村のコレクションを常設展示している美術館です。地元の素材をふんだんに使い、奄美の高倉をイメージした展示室には、一村の東京時代、千葉時代、奄美時代の作品約80点(年4回展示替え)が展示してあり、日本画家田中一村の画業に触れることができます。その他、館内の企画展示室では、奄美にちなんだ催しも開催しています。田中一村(たなか いっそん)日本画家明治41(1908)年、栃木県に生まれる。幼い頃から画才を発揮し、7歳の時、父の濔吉(号稲村、稲邨)より「米邨」の号を与えられる。大正15年東京美術学校入学後、わずか2か月余りで中退、その後南画家として活動する。第19回青龍展に「白い花」を出品入選するが、その後中央画壇とつながりをもつことはなかった。昭和33年50歳で単身奄美大島に移住。紬工場で染色工として働き、蓄えができたら絵を描くという生活を繰り返し、亜熱帯の植物や動物を描き続け、独特の世界をつくりあげた。絵描きとして清貧で孤高な生き方を通した一村は、昭和52(1977)年69歳でひっそりとだれにも看取られずにその生涯を閉じた。http://amamipark.com/wp-content/uploads/2013/12/18057144_512338962223404_1625817523390387927_n-150x150.jpghttp://amamipark.com/isson/
私がしっかり一村に魅せられたのは何でも鑑定団です
その時見たこともない綺麗な異国風の風景画に魅了されました。
その後、襖絵や地元のご夫婦の肖像画(一村には稀有な人物画、細密描写)も鑑定団に出されました。それがとても高額、中央が段位は無視された画家とは思えませんでした。
私は藤田嗣治や一村のような反骨、不遇とされるような画家が好きになります。
藤田は当時パリで大成功した画家なのに、日本では不当に低く評価されたり画家仲間に戦犯扱いされました。
ユーモア、反骨精神のあるかたでした。
パリ郊外の藤田のアトリエやランスのチャペルも見学でき幸せです。
どちらもバラが咲いていました。
ベルサイユからバスで行けると、ネットで見た藤田のアトリエ、
でもそんなの現地ではわからずタクシーで藤田やマリーアントワネットが好きだったジュイ布美術館見学を経てアトリエへ。
藤田の絵にはこの布が細密描写されてます。
骨董が大好きだった藤田、ビスクドールもコレクション、手芸裁縫、額つくりもお手の物。
記念館から見た奄美パーク
奥に展望台が見えます
ベンチは沖縄の作家作品。
一村もこんな立派な記念館ができて、お幸せ、地元も一村のおかげでよい発展ができます。
夏に佐川美術館で見た絵も戻っています。
軍鶏の鋭い目やチャボの親子のかわいい下絵は初めて見ました。
下絵は絵葉書にもなっていなくて残念。
佐川美術館で見た日傘はありませんでした。
混んでいた佐川とは違いゆったり鑑賞できます。
孤高の画家田中一村展←佐川美術館
美術館の周囲は一村が歩いた奄美のイメージ。
これはほかの画家が描いていないようですから。
切手になった風景画もあまりの美しさに驚きました。
音楽座の舞台、遠藤周作原作の「私が・捨てた・女」も衝撃的でした。
これ以上写真が載せられません、次回に。
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