続鴎外荘、「鴎外の怪談」
前の記事の続きです、画像制限でした。
高い割には…前回は朝食の時間もなく和歌山まで飛んだので。
これは7月18日から19日の事です。
永井愛作、現代に通じる「鴎外の怪談」👈を観て鴎外に関心持ちました。
自分には書けない。
日本にはあれほどの深い絶望も反抗心もない
自由を求める心もないと嘆く。
永井さんが作り上げた女中さん役がキモ。
後半は切羽詰まります。
故郷の津和野の寺に隠れキリシタンが連行されてきて拷問
社会主義者への拷問
家族親戚中がエリスを追い返した…
これを鴎外は観ていて、苦しむことになるのです。
大逆事件では無罪の人を見殺しにするのか。
森鷗外は、「舞姫」「雁」「阿部一族」「高瀬舟」など、今も読み継がれる数々の名作を生み出した明治の文豪。幕末の津和野藩に御典医の息子として生まれた鷗外は、幼少時代から学業優秀、神童と呼ばれて育ちます。19歳8カ月という若さで東大医学部を卒業、陸軍軍医となり、ドイツへ留学します。帰国後、28歳の時に、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、上野花園町の赤松家の持家に住みます。それが当ホテル所有の鷗外荘。ここで「舞姫」をはじめ、「うたかたの記」「於母影」などの作品が執筆されました。
かつて鷗外が「舞姫」を執筆した日本間を「舞姫の間」と名付け、現在はお食事処、宴会場、コンサート会場として、皆様にご利用いただいております。庭に は、当時から残る樹齢300年の榧の木や、200年以上の黒金もちの木もあり、当時の鷗外の暮らしをしのぶことができます。2002年に復元した玄関もぜ ひご覧になってください。まるで、鷗外がその場に佇んでいるかのような明治の雰囲気漂う玄関です。
鷗外荘の中には、少人数でご利用いただける特別室もございます。於母影は、文学サロンの趣を今に残す優雅なダイニング。12名様までご利用いただけます。粋な坪庭を眺めながら、ご家族やお友達と和やかな時間をお過ごしください。
土蔵造りの書斎風のお部屋。柱や梁の木目をそのまま活かした日本の伝統的構法に、洋風のテーブルや椅子を合わせたインテリアは、文明開化の香り漂うモダンな雰囲気。6名様までご利用いただけます。日常を忘れてを明治の浪漫を満喫ください。
鷗外荘のある中庭には、森鷗外文学発祥の地を記念して建立した、「舞姫の碑」「於母影の碑」、ふたつの文学碑が あります。碑文は、どちらも 鷗外のご子息故森類氏と鷗外研究の第一人者長谷川泉氏のご協力で、題字、署名、本文を鷗外直筆の原稿から写しとりました。鷗外の偉大な足跡に思いを馳せてみてはいかがでしょう。
明治・大正期の小説家。陸軍軍医、官僚。本名は森林太郎。島根県津和野町(旧・石見国津和野出身)。東京帝国大学医学部卒業。夏目漱石と並ぶ明治の文豪。
大学卒業後、陸軍軍医になり、ドイツで4年間遣留学生として過ごす。帰国後に、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表。その後、軍医総監となり、『スバル』『ヰタ・セクスアリス』『雁』を執筆。『興津弥五右衛門の遺書』発表後は、『阿部一族』『高瀬舟』の歴史小説、史伝『澁江抽斎』を書いた。
大学卒業後、陸軍軍医になり、ドイツで4年間遣留学生として過ごす。帰国後に、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表。その後、軍医総監となり、『スバル』『ヰタ・セクスアリス』『雁』を執筆。『興津弥五右衛門の遺書』発表後は、『阿部一族』『高瀬舟』の歴史小説、史伝『澁江抽斎』を書いた。
文学碑/舞姫の碑
このランプ、懐かしい、似たような照明器具が昔、家にもありました。
蒲郡クラッシックホテルの和朝食は美味しい
鴎外荘や山の上ホテルは…東京だから仕方ない(・・?
鴎外は上野の妻の実家のこの持家に住みました、
前身の『水月旅館』がオープンしたのが1943年(昭和18年)。隣りに鴎外の旧居がありました。鴎外が28歳から29歳にかけての約1年半を過ごし、あの名作『舞姫』を執筆した由緒ある旧居でしたが、次々と住み手が変わり、ついには空き家となって崩れてしまいかねない状態に。その様子を目にしていた水月旅館の創業者が一大決心、大金をかけて購入しました。1946年(昭和21年)のことでした。調べると興味深いですね、いつもありがとうございます!
前身の『水月旅館』がオープンしたのが1943年(昭和18年)。隣りに鴎外の旧居がありました。鴎外が28歳から29歳にかけての約1年半を過ごし、あの名作『舞姫』を執筆した由緒ある旧居でしたが、次々と住み手が変わり、ついには空き家となって崩れてしまいかねない状態に。その様子を目にしていた水月旅館の創業者が一大決心、大金をかけて購入しました。1946年(昭和21年)のことでした。調べると興味深いですね、いつもありがとうございます!