riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

続鴎外荘、「鴎外の怪談」

前の記事の続きです、画像制限でした。
高い割には…前回は朝食の時間もなく和歌山まで飛んだので。
これは7月18日から19日の事です。
 
 
 
 
 
永井愛作、現代に通じる「鴎外の怪談」👈を観て鴎外に関心持ちました。
 
ゴーリキーの「夜の宿」小山内薫演出を見た永井荷風
自分には書けない。
 
日本にはあれほどの深い絶望も反抗心もない
 
自由を求める心もないと嘆く。
 
雑誌「スバル」の発行人で事件の弁護団の一員となった平出修(内田朝陽)も鴎外邸へ。
 
永井さんが作り上げた女中さん役がキモ。
 
後半は切羽詰まります。
 
故郷の津和野の寺に隠れキリシタンが連行されてきて拷問
 
社会主義者への拷問
 
家族親戚中がエリスを追い返した…
 
これを鴎外は観ていて、苦しむことになるのです。
 
大逆事件では無罪の人を見殺しにするのか。
 
100年前に通じる今の政治状況。
 
三権分立も今も実現していないこの恐るべき後進国
 
大逆事件は完全秘密裁判で一回のみの裁判だった。
 
新聞は全く問題にしないというか、
天皇が狙われたと知られたくない国
 
官憲のでっちあげ事件と知られたくない、
だから新聞社に頼んで書かないように頼み込んだ。
 
日本人は不真面目だ、大事な事について考えない
 
以下は引用です。
 
森鷗外は、「舞姫」「雁」「阿部一族」「高瀬舟」など、今も読み継がれる数々の名作を生み出した明治の文豪。幕末の津和野藩に御典医の息子として生まれた鷗外は、幼少時代から学業優秀、神童と呼ばれて育ちます。19歳8カ月という若さで東大医学部を卒業、陸軍軍医となり、ドイツへ留学します。帰国後、28歳の時に、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、上野花園町の赤松家の持家に住みます。それが当ホテル所有の鷗外荘。ここで「舞姫」をはじめ、「うたかたの記」「於母影」などの作品が執筆されました。

明治の浪漫が薫る「鷗外荘」

かつて鷗外が「舞姫」を執筆した日本間を「舞姫の間」と名付け、現在はお食事処、宴会場、コンサート会場として、皆様にご利用いただいております。庭に は、当時から残る樹齢300年の榧の木や、200年以上の黒金もちの木もあり、当時の鷗外の暮らしをしのぶことができます。2002年に復元した玄関もぜ ひご覧になってください。まるで、鷗外がその場に佇んでいるかのような明治の雰囲気漂う玄関です。

於母影の間

鷗外荘の中には、少人数でご利用いただける特別室もございます。於母影は、文学サロンの趣を今に残す優雅なダイニング。12名様までご利用いただけます。粋な坪庭を眺めながら、ご家族やお友達と和やかな時間をお過ごしください。

蔵の間

土蔵造りの書斎風のお部屋。柱や梁の木目をそのまま活かした日本の伝統的構法に、洋風のテーブルや椅子を合わせたインテリアは、文明開化の香り漂うモダンな雰囲気。6名様までご利用いただけます。日常を忘れてを明治の浪漫を満喫ください。

「ふたつの文学碑」で鷗外を偲ぶ

鷗外荘のある中庭には、森鷗外文学発祥の地を記念して建立した、「舞姫の碑」「於母影の碑」、ふたつの文学碑が あります。碑文は、どちらも 鷗外のご子息故森類氏と鷗外研究の第一人者長谷川泉氏のご協力で、題字、署名、本文を鷗外直筆の原稿から写しとりました。鷗外の偉大な足跡に思いを馳せてみてはいかがでしょう。

森鷗外について

森鷗外 Ohgai Mori 1862年(文久2年1月19日)-1922年7月9日

明治・大正期の小説家。陸軍軍医、官僚。本名は森林太郎島根県津和野町(旧・石見国津和野出身)。東京帝国大学医学部卒業。夏目漱石と並ぶ明治の文豪。
大学卒業後、陸軍軍医になり、ドイツで4年間遣留学生として過ごす。帰国後に、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表。その後、軍医総監となり、『スバル』『ヰタ・セクスアリス』『雁』を執筆。『興津弥五右衛門の遺書』発表後は、『阿部一族』『高瀬舟』の歴史小説、史伝『澁江抽斎』を書いた。
鷗外は、海軍中将赤松則良の娘の登志子と結婚。赤松家の持家であった当ホテルの旧邸に根岸から移住した。 1890年に現・水月ホテル鷗外荘の旧邸で処女作の舞姫を発表。この家より無縁坂を登り不忍池をまわって帰ってきた事が、後に小説“雁”の舞台になったと言われる。
小説『舞姫』は、自分の実体験に基づいた小説。後年、「エリス」と文通をし、その女性を生涯忘れることはなかったとされる。死期が迫ったある日、彼女の写真と手紙をひとまとめにし焼き捨てさせたという。
晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館奈良国立博物館京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任した。
交際も広く、自宅で開催した歌会が有名で、当時対立していた与謝野鉄幹正岡子規の両派の代表歌人をまねいて開かれた。伊藤左千夫・平野万里・上田敏佐佐木信綱等が参加し、北原白秋吉井勇石川啄木・木下杢太郎、斎藤茂吉・古泉千樫、与謝野晶子等も参加した。
また、樋口一葉をいち早く評価したり、与謝野晶子平塚らいてうも早くから高く評価した。与謝野晶子の子供の名付け親をしたりもしている。
「三人冗語」の三人。
左から鷗外・幸田露伴斎藤緑雨。『めさまし草』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、評壇のした。
 

森鷗外ゆかりの碑・遺物など


文学碑/舞姫の碑
往時を偲ばせる庭園には鴎外の御三男、森類氏と森鴎外研究の第一人者 長谷川泉博士の御協力で題字、署名、本文共に鴎外直筆の原稿からとられた「舞姫の碑」「於母影の碑」の二つの文学碑があります。

文学碑/於母影の碑
舞姫の碑に刻まれている内容(「舞姫」作中から、鴎外令息森類の選定による) 「彼は幼き時より物読むことをば流石に好みしかど手に入るは卑しき『コルポルタージュ』と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを余と相織る頃より余が借したる書を読みならひて漸く趣味をも知り言葉の訛りをも正し幾ほどもなく余に寄するふみにも誤字少なくなりぬ、かゝれば余等二人の間には先ず師弟の交じりを生じたるなりき」と。
女将だより
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
このランプ、懐かしい、似たような照明器具が昔、家にもありました。
 
 
 
 
 
 
蒲郡クラッシックホテルの和朝食は美味しい
鴎外荘や山の上ホテルは…東京だから仕方ない(・・?
 
 
 
鴎外は上野の妻の実家のこの持家に住みました、
前身の『水月旅館』がオープンしたのが1943年(昭和18年)。隣りに鴎外の旧居がありました。鴎外が28歳から29歳にかけての約1年半を過ごし、あの名作『舞姫』を執筆した由緒ある旧居でしたが、次々と住み手が変わり、ついには空き家となって崩れてしまいかねない状態に。その様子を目にしていた水月旅館の創業者が一大決心、大金をかけて購入しました。1946年(昭和21年)のことでした。調べると興味深いですね、いつもありがとうございます!