大好きだったのに、藤木孝さん、哀悼
藤木さんが亡くなってしまいました、藤木さんを知ったのはロカビリー時代の彼ではなく、ミュージカル俳優としてでした。
テレビでお若いときの映画を観て感心しました。↓だったか、もう一度観たい
1962年、篠田正浩監督の映画「涙を、獅子の髪に」では主演を務めました
引用:https://koimousagi.com/4572.html
藤木さんは
舞台でもすっきり、真摯で大好きでした。それがショックな最後となられました
ロカビリー歌手から決別され、にんじんくらぶや文学座で研鑽されたようです。
だから受賞もされています。
あの名作ミュージカルミュージカル「パレード」にも出演決まっていたのに。
ご自分を追い詰めたのでしょうか、
長い間良い仕事されたのですからゆっくりされてほしかった。
昔時代劇の大友柳太朗さんも真面目すぎたのか、自死。
酒飲むと台詞が入らないからと慎んでる俳優さんもいると聞いています。
このお二人のお酒や個人的なことは知りません。
お二人に息子さんがいたとは、
大友さんの息子さんはジャズピアニストと、今回検索して知りました。
舞台でも真摯出大好きでした。最近友人のお連れ合い様も、俳優の、俳優の斎藤洋介さんも病死、
ちょうど三田佳子のドラマ、始まった時は入院中だった友人のお連れ合い様
昨日は最終回、その間にお亡くなりになってしまいました。
家人の作品展もご夫婦で観に来てくださいました。
有難うございました。
一日一日、大事に生きなければと思います。
東宝芸能学校卒業後の1959年、歌手として渡辺プロダクションと契約し、テイチクレコードからデビュー。歌唱力とダンスの才を活かし、1960年代前半には「レージィ・ギター」「踊れツイスト」「ツイストNo.1」「ママのツイスト」「24000のキッス」などのヒット曲を連発し、「ツイスト男」の異名で当時のツイスト・ブームを牽引した。
1962年、人気絶頂の中で歌手引退を表明し渡辺プロ社長の渡辺晋の反対を押し切って退社、同年文芸プロダクションにんじんくらぶに入り、俳優へ転身する。演技を基礎から学ぶため文学座の研究生を経て、1966年には劇団欅の結成に参加した。1976年からは劇団雲と劇団欅の統合により誕生した劇団昴に所属し、主に翻訳劇などで活躍したが、2006年に退団した。
歌手としての実績を買われてミュージカルなどの舞台に立つ一方、悪役から刑事までこなす俳優として、映画やテレビドラマでも数多くの作品で活躍した。その特異な存在感で怪優としての再評価も高く、1986年には第12回菊田一夫演劇賞[9]、2003年には第38回紀伊國屋演劇賞個人賞[10]を、2005年には第45回ACC CMフェスティバル演技賞[11]を受賞している。
生前はかつての所属事務所の同業他社のライバル会社であるホリプロに所属していた。過去に渡辺プロダクションに所属していた人物のホリプロ移籍は非常に珍しい事例である。
2020年9月20日未明、東京都中野区の自宅で帰宅した息子が亡くなっていた藤木を発見した[5][6]。詳細な死因は不明。80歳没。
出演