riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">気がつけば原発大国!</span>







テレビ朝日のSフロントライン


中曽根がどの面下げて!
原発廃止すると国力がとまるだと。



柴田秀利氏は、終戦直後の混乱期から、新聞、ラジオ、テレビのメディア界を中心に活躍したマルチジャーナリストです。
柴田氏はこの間に皇室と親交を深め、GHQ、さらにこの関係を利用しアメリカ国内等に広範囲にわたる人脈ネットワークを築き上げ、また、この結果、吉田茂首相をはじめ、日本の政府要人とも広く交友関係を結びました。
そして、こうした人脈と卓抜した企画力を駆使して日本の復興に多大の貢献をしました。特に、柴田氏は、戦後の混乱期に発生した戦後最大の労働争議である"読売新聞社労働争議"の解決、日本のテレビ時代の幕開けとなった"日本テレビ放送網株式会社の設立"、また、将来の重要な項目でもある"原子力平和利用時代"、さらに、ゴルフブームの仕掛けを演出した「戦後時代のプロデューサ」です。

上記は柴田秀利HP

1935年 愛知県立明倫中学校(現愛知県立明和高校)卒業。名古屋市大曽根の陶器絵付工場に住み込みで働くが、病気で勤めをやめる。



毒には毒を 反原子力をおさえるために、原子力平和利用!

経済発展すれば全世界が汚染され人命がなくなってもいいの?

本当は経済じゃなくて、何十億もの札束が自分の懐に入る話でしょう。







98年帰国する日にセーヌの対岸のバルザックの家 とその付近のアールヌーヴォ建築を見学しました。

バルザックの家はパリには珍しい庭付き一軒家、銅像の所にベンチもあったのですが座る気にならない鳥の落し物が~

1976年に開業したホテル・ニッコー・ド・パリ開業(764室)は2002年ノボテル・パリ・ツール・エッフェルに改称されています。


ガイドブック片手に、だけれどなかなか探すのは難しい。
98年ホテルから見ていたラジオフランスも様相が変わりでした。工事中。

余談ですがギャラリー・ラファイエットの天井のステンドグラスも素晴らしかった。今回は行けませんでした。

建築としてのアールヌーヴォが初めて登場したのはブリュッセルのオルタのタッセル邸(1892)
それを見学して感銘を受けたギマールが帰国後設計変更を加えて完成させたのが、このカステル・ベランジェ。パリで最初のアールヌーヴォ建築になった。

私がここで写真撮っていた時、東洋人ではない女性二人も外から見学していました。
ほかでは見学する人はいなかったです。



36戸からなるアパート。プランが全部異なる。外観は砂岩、レンガ、タイル、鉄と様々。ベランダや換気口などに奇怪な生物のような鋳鉄さ行くまで付けられた。そうした統一感のない賑わしい外観や薄気味の悪い内装・パネルから、アパートの名をもじって「おかしな館カステル・デランジェ」と当初冷たい批評を浴びた。今そのおかしな館は16区のラ・フォンティーヌ街にはなくてはならない存在に。下村純一「アールヌーヴォの邸宅より」

以前、ウィーンのシェーンブルン宮殿に住んでる人たちがテレビに出ました。


ギマールが手掛けた地下鉄の入り口はパリ市内に凡そ170もあったといわれています!その多くは、20世紀の前半には取り壊されてしまい世界中の美術館に引き取られたそうです。


  

このカステル・ベランジェに引っ越して来た女性が、一週間寝込んでしまったという言い伝えさえあります。そんな評判に対するギマールの答えは。「慣れてしまえば、なかなかいいものですよ」エクトル・ギマールは、1867年リヨン生まれ。

ギマールも名前とメトロ入り口の有名な装飾ぐらいしか知らないのです。
ブログにアップして見ていただかないと調べることすら忘れてしまいますから。
モンソー公園のメトロ入り口







モンソー公園にママと遊びに来ていた子供たち




こんなローマ風の廃墟の写真を見て行きたくなった公園。

日本から送られた灯篭やショパンとサンドの銅像もあります。

頭に鹿のぬいぐるみを載せた人を撮影していました。

上天気の日で大勢の市民が芝生広場で寝そべっていました。






原発止めるまでどうするんだばかり、切迫しているし電気は余っているのに。

54基もある原発のうち動いているのは20いくつか。


テレビ番組の続きです。
カンサンジュン先生諸外国は大統領制が多いのに、日本は議員内閣制でモタモタしている


これが自治体の長の言葉?!”原発と地域振興

1983年1月26日石川県羽咋郡志賀町で開かれた「原発講演会」(地元の広域商工会主催)での高木孝一敦賀市長の講演内容を以下に示します。“これが自治体の長の言葉?!”と驚くと同時に、原発による地域振興なるものの実態がよく理解できるはずです。原発が札束をばらまきながらやってくる、そして人を、町を、ボロボロにしてしまうことが、立地自治体の本音とともに問わず語りに吐露されています。
……えー、その代わりに100年経って片輪が生まれてくるやら、50後に生まれた子供が全部片輪になるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階では(原発を)おやりになった方がよいのではなかろうか…。こいうふうに思っております。どうもありがとうございました。(会場、大拍手)

今回のテーマについて、これ以上何の説明も要らないでしょう。ひとつだけ付け加えるなら、原発に限らずこうした事業を誘致した政治家が懐に入れるリベートは、投資金額の1~3%と言われています。原発1基3000億円とすれば、リベートは30~90億円と言うことです。

この講演が効を奏してか、会場となった志賀には北陸電力志賀原発1号機が建設され、運転を開始しています。

 ★引用文献:内橋 克人著 「原発への警鐘」 講談社文庫  

内橋 克人さんも尊敬できる文化人。下のサイトでインタビューを聞くことが出来ます。



私は福島第一原発の事故はまさしく人災だと思う。「原発は安全でクリーンなエネルギーだ」と嘘を唱えてきたわけだが、その安全神話が崩れて、地震津波という自然災害に加えて、原発事故という人災が追い討ちをかけてしまった。
原発安全神話がどのように作られてきたのかについてだが、当の電力会社はもちろんのこと、科学の名において「安全だ」と主張してきた夥しい数の学者・研究者・行政の責任は免れることはできないと思う。原発推進は今も各地で続いているわけだから。
私は29年前の著書『原発への警鐘』(内橋克人、1982、雑誌の連載を本にしたもの)の中で、原発立地をめぐる住民の方々との公開ヒアリングの有様を詳しく書いている。今では公開ヒアリングそのものさえ開かれていない。

お子さんのある女性の「宍道湖を泳いで逃げるのですか。私たちはどこへ逃げたらよいのか」原子力安全委員会はこれに答えず!

科学の国のドンキホーテ、狭い国土に逃げ場がない、これが被曝国のすることでしょうか。

アメリカにも原爆投下に抗議しなかった日本政府、こんなことしているから世界に恐ろしい汚染物質を垂れ流し。

膨大な費用使って男女の文化人に原子力をアピールさせた、皆さんも「世界不思議発見」草野さんたちの原発のCM覚えていらしゃるでしょう。