riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">鶴舞公園115年</span>


 
100年ちょっと前の鶴舞公園
 

 

 
以前写真集で見て驚いた金閣風の建物。
 

 
やはり空襲で焼かれてます!
現在の鶴舞公園の敷地内で、明治43(1910)年に「第十回関西府県連合共進会」が開催され、その際以下の2つの建築物が“金閣寺を模し”て造られました。

(1)「聞天閣」(もんてんかく)という迎賓用の建築物(別名・貴賓館)・・・会場東方丘陵上の一角に建ち、“青銅製鳳凰が屋根の中央に翔立する、金閣寺をそっくり模した”建物で、“広さ501.2平方メートルのこけら葺純日本建築”でした。昭和20年3月19日に焼失しました。

(2)キリンビールのビヤホール・・・麒麟麦酒株式会社によって会場内の胡蝶池に造られた建物で、『日本のビール』によると“金閣寺を模した池亭をつくって、その中にぼんぼりを灯して、即席ビアボールを設けた。先ごろの万国博のパビリオンを思わせるような着想である”とあります。
 


 

 
左上の美術館は現存しません。アールデコの雰囲気ですね。
右下は今も現役の名古屋市公会堂
 


 

 
1924(大正13)年名古屋市に公会堂建設をと市民の寄付を仰いだが、おりしもの金融恐慌で寄付事業が頓挫し、工事は中断した。その後、昭和天皇の御成婚記念として昭和5年に完成しました。当時としては日本有数のホールを持つ堂々たる建物でした。戦時中は陸軍の司令部として使用され、戦後は1956年まで進駐軍の施設として、建物、公園とも大半が接収され、日本人はオフリミットでした。昭和31年の接収解除後の建物の各所には英語の落書きや、ナイフの切り傷が有りました。返還後は改装を重ね、現在、式典、公演、集会などに利用されています。
こげ茶色のタイル張りの重厚なレトロ調建築は、若い人にも受け、また中高年層には懐かしい若き日の思い出いっぱいの建物です。周りが広い駐車場に成っているので便利が良く、現在もほぼ毎日イベントが行われています。
 
噴水塔は、ヨーロッパ様式の重厚な造りで共進会会場の正面につくられた、(設計者は奏樂堂と同じ鈴木禎次工学士)、その後、公園のシンボルとして永く市民に親しまれてきたものです。地下鉄鶴舞線の建設工事に伴い昭和48年に解体されましたが、同52年に築造当初の姿に忠実に復元されまた。この噴水塔は、大理石の円柱に岩組を配した和洋折衷の明治調を良く表現し、全体としてはローマ様式の変化のある豊かな水景を形ずくっています。
この下は名古屋市内を縦横無尽に走る地下鉄が毎日運行しているのですが、静かにたたずめば、音や振動が感じられるでしょうか?
 
 
噴水塔は、ヨーロッパ様式の重厚な造りで共進会会場の正面につくられた、(設計者は奏樂堂と同じ鈴木禎次工学士)、その後、公園のシンボルとして永く市民に親しまれてきたものです。地下鉄鶴舞線の建設工事に伴い昭和48年に解体されましたが、同52年に築造当初の姿に忠実に復元されまた。この噴水塔は、大理石の円柱に岩組を配した和洋折衷の明治調を良く表現し、全体としてはローマ様式の変化のある豊かな水景を形ずくっています。
この下は名古屋市内を縦横無尽に走る地下鉄が毎日運行しているのですが、静かにたたずめば、音や振動が感じられるでしょうか?
 
 
 奏楽堂・噴水塔を設計した鈴木禎次氏とは・・・・・・
鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月2日) - 昭和16年(1941年)8月12日)71歳没は、静岡県静岡市出身の日本の建築家である。東京帝国大学工科大学造家学科(東大の前身)を明治29年卒業。明治36年、文部省の命で欧州へ留学。明治39年帰国後、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)の教授を16年間勤める。妻の姉は夏目漱石に嫁ぎ、禎次氏は漱石の義弟に当たり、漱石の墓碑の設計も行う。
奏楽堂、噴水塔を設計したのは鈴木氏が30代後半の、建築家として独り立ちし始めた時期。鶴舞公園を洋風庭園として外国の手法を取り入れ、中部地方の近代西洋建築家の位置づけを確立した。