riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">ジャングル・ブックの作者キプリングが暮らした邸宅ベイトマンズ</span>


イングランド南東部に位置するサセックス州にある、Bateman’s ガーデン

偶然見つけて開園まで少し待ちました。ナショナルトラストです。

昨日「天空の蜂」観てきました。つっ込みどころはたくさんありましすが原発を題材に、人間の愚かさを描き、飽きさせません。

でも名古屋弁は酷かった(苦笑)

今朝のBS街歩きアムステルダム観ていてデルフトブルーが出てきました。
私もフェルメールが観たくて英仏の旅に急遽オランダを追加したことがあります。
アムステルダムから列車に乗ってデルフトへ、

女性車掌さんの爪がブルーでした!

デルフト焼がほしくても一人旅で
そのあと英仏庭めぐりしたので何も買えませんでした。
アムステルダムの窓←2009年の記事です



イトマンズの入り口です。

ちらっとポタジェ(キッチンガーデン)がのぞいてます。



なぜこんなに高い柵?


バラも一緒に



薔薇のアーチの向こうに見える建物に住んでいたのは




ここはお孫さん連れたご夫婦が来園、
帰える頃には欧米系の団体が来たので有名なのかなと(苦笑)

この数日は東洋人は観ていませんでした。

キプリングが英国人として初めてノーベル文学賞を史上最年少(41歳)で受賞したのは、このベイトマンズで暮らし始めて5年後のことで、邸宅の庭園はノーベル賞受賞で得た賞金から7700ポンドを費やして造ったものだそうです。また、ノーベル賞受賞の年に発表した作品『プークが丘の妖精パック』は、この邸宅から見えるプークが丘(Pook's Hill)をモデルに描かれたとのこと。













バラ園こえるとカフェがありました。






この奥に驚くべきフォーマルなガーデンが隠れてます。

追記
英領インドボンベイに、父ジョン・ロックウッド・キプリング、母アリス・キプリングの間に生まれる[12]。アリス (旧姓マクドナルド、ビクトリア朝時代の有名な「マクドナルド4姉妹英語版」のうちの一人[13]) は快活な人柄で[14]、「同じ部屋にいると決して退屈しない」女性だったという[1]。ロックウッドは彫刻と陶器のデザイナーで、当時ボンベイに設立されたJamsetjee Jeejeebhoy卿の芸術・産業学校において建築彫刻の教授で主任だった[14]

バーニス・M.マーフィーによると、キプリングの両親は彼ら自身をアングロ・インディアン (イギリスで生まれインドで暮らした人々を指す19世紀の用語) と考えており、彼らの息子も同様と考えたが、実際には彼の人生の多くは他の土地で費やされた。そしてアイデンティティと国への忠誠心の複雑な問題が、キプリングの作品を特徴づけるようになる[17]キプリング自身もこの矛盾について「午睡をとる前に乳母か現地人の使用人が、伝えられている物語やインドの童謡を語ってくれて、正装してダイニングで過ごす時になると「パパとママには英語を話すのよ」と注意されるのだった。つまり、かたや現地語で考え、夢を見て、かたやそこから翻訳しながら英語で話すのだった。」と書いている

母方の叔母ジョージアナは画家のエドワード・バーン=ジョーンズの妻、またその妹のアグネスはやはり画家のエドワード・ポインターの妻だった。

1902年、キプリング東サセックスの農村バーウォッシュ英語版 にある、1634年に建てられたベイトマンズ屋敷英語版を購入。家は、周りを取り囲む建物や製粉所、33エーカー (130,000 m²)の土地とともに9,300ポンドで購入された。バスルームも、階上への水道も電気も無い家だったが、キプリングはここを愛した。「見よ、灰色の石で覆われた家の所有者、それは1634年への扉であり、梁、羽目板、古いオーク材の階段、すべてが変わっておらず、本物だ。よい、そして平穏な場所だ。」彼は1902年に書いている。「我々がそれを最初に見たときからずっと愛している。」[33][34]
1904年に出た短編集『交通と発見』以降は難解な作品を手がける