riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline">続ワイダ監督追悼</span>

ようやく昨夕から中日新聞にワイダ監督のニュースが載りました。


<成功には多くの父親がいるが、失敗はみなしごである>とは西洋の格言だが、九十歳で逝った映画監督アンジェイ・ワイダさんは、こんな信念を持っていたという。<映画が成功した時、私はそれを「私たちの映画」と呼び、うまくいかなかった時は「私の映画」と呼ぶことにしていた>
▼そう言い切ることに、どれほどの覚悟を要しただろう。異論を許さぬ全体主義体制の刃(やいば)の下に身を置きつつ、『大理石の男』など、体制に抵抗するポーランドの人々の姿を描いた
▼なぜ、そんなことが可能だったのか。彼は自伝『映画と祖国と人生と…』で記している。<大事なのは、検閲そのものを無効にしてしまうような映画を作ることなのだ
>。検閲できるのは、検閲官の想像力に収まるものに限られる。真の独創性があれば、検閲すら無力にできると
▼そういう彼の作品を愛し、岩波ホールの支配人として紹介し続けた高野悦子さんのご母堂が逝った時、ワイダさんは、自宅まで弔問に来てくれたという
▼高野さんの著書『母』によると、畳の上に安置された遺体を前に、ワイダさんは騎士が王の前で挨拶(あいさつ)するように、片膝をつき胸に手を当てて、深々とおじぎをした。<その動きが美しくて、まるで映画の一シーンを見ているようだった>そうだ
▼今、世界中の映画ファンが、胸に手を当てて、巨匠の死を悼んでいることだろう。
 
素晴らしい方でした。検閲できるのは、検閲官の想像力に収まるものに限られる。真の独創性があれば、検閲すら無力にできると
難解なはず、
【ベルリン=垣見洋樹】ポーランドの世界的な映画監督で、抑圧的な体制下で自由を求めて闘う民衆などを描いたアンジェイ・ワイダ氏が九日夜、死去した。九十歳だった。ロイター通信などが伝えた。
 一九二六年、ポーランド東北部スバウキで生まれ、十代で反ナチス抵抗運動に参加。画家を目指してクラクフ美術学校に通い、後にウッチ映画大を卒業した。
 五〇年代、反ナチス抵抗運動を描いた「世代」「地下水道」、親ソ派地方幹部の暗殺を図る男を主人公にした「灰とダイヤモンド」の「抵抗三部作」で、世界的な評価を得た。七七年、共産党の厳しい検閲下で制作した「大理石の男」で、“労働英雄”に祭り上げられた男の悲劇を通して、五〇年代の社会の闇を描いた。
 八一年、造船所での大規模なストライキを題材に、自主管理労組「連帯」の初期の活動を取り上げた「鉄の男」でカンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)を受賞。しかし戒厳令下で、国内では公式上映は認められず、反体制的な内容を問題視され、映画人協会会長の座を追われた。
 二〇〇〇年、米映画芸術科学アカデミーから「民主主義と自由をテーマにした作品で、第二次大戦後の欧州の人々に勇気を与えた」として名誉賞が贈られた。
 〇七年、自身の父を含むポーランド軍将校ら二万人以上が旧ソ連秘密警察に虐殺された事件を題材にした「カティンの森」を発表。一三年には「ワレサ 連帯の男」で、元「連帯」議長のワレサ氏(元大統領)の半生を描いた。晩年は歩行補助具を使うほど体力が低下したが、制作意欲は衰えず、遺作の「Afterimage(英題、日本語で『残像』の意味)」は今年のトロント国際映画祭に出品。生涯の作品数は四十本を超える。
 日本との関わりが深く、自ら発案し、浮世絵などを集めた「日本美術・技術センター」を一九九四年、クラクフに設立した。
 (顔写真はロイター・共同)

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