riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">赤十字創設ソルフェリーノの夜明け</span>





今も医療関係者は大変なお仕事をされていると思います。

ソルフェリーノの夜明けーアンリー・デュナンの生涯―

植田先生作とは、ベルばら外伝などにはがっくり来ていたのですが。


「Carnevale(カルネヴァーレ) 睡夢(すいむ)」―水面に浮かぶ風景―。作・演出/稲葉太地

赤十字の旗は皆さん、ご存知でしょう。それがどのようにして出来たかというお話です。これはいつもの夢夢しい話ではなく、男性も大丈夫でしょう。

阪神大震災にもあった宝塚です。昨日、テレビで偶然本作を観て気高い魂にあったような気がしました。

アンリー・デュナンの生涯なのにプロローグは真っ白で華やかベルバラ調で驚きましたがこれは本筋が深刻だからでしょうね。

1859年、第二次イタリア独立戦争でイタリアとオーストリアが戦い、多くの死傷者が出ました。

ジュネーブからの旅行者、アンリー・デュナン(水夏希)は死屍累々の悲惨な光景を目の当たりにし、傷者はイタリア人、オーストラリア人区別なく救うべきだと考えました。

捕虜となったオーストリア兵が脱走を試みてイタリア兵に見つかり銃殺されそうになります。

そこでオーストラリアの将軍ベネディツ(汝鳥怜)が責任を取って自分を銃殺するようにと名乗り上げます。

ここでまずぐっと来てしまいました。

これとは逆に上のものが下に責任を押し付け生き延びたことがあります。

私は貝になりたいで有名ですが第二次世界大戦で上官の命令で捕虜を虐待した罪でB,C級戦犯が処刑されました。中には当時日本の植民地だった朝鮮の兵士たちもいました。

「人を殺すのが名誉になる、戦争は集団殺人」だとアンリー・デュナンは主張します。

急ごしらえの教会では薬も設備も不十分。戦場を医薬品や食料を運ぶことになりますがイタリア、オーストリア両軍から狙われてしまいます、そこで‥

兵士たち、医師役彩吹真央イタリア軍師団長(未来優希)や参謀長(音月桂)も力演。みんな血染めの衣装です。

【story】 ~skystageより
1859年、第二次イタリア独立戦争では、イタリアが圧倒的に優勢な立場にあった。しかしオーストリア軍もロンバルディア地方のソルフェリーノで再起を図るなど抵抗を続け、戦況は緊迫、両軍の死傷者は跡を絶たず、野戦病院から溢れた負傷者は教会などに収容されていた。ジュネーブからの旅行者、アンリー・デュナン(水)は悲惨な光景を目の当たりにし、大きな衝撃を受ける。傷を負ったオーストリア兵に助けを求められたデュナンは兵士を教会へ運び込むが、看護婦のアンリエット(愛原)に手当てを断られる。彼女は両親をオーストリア兵に虐殺され、オーストリア人に憎しみを抱いていた。尊い命を救うのに敵も味方も関係ないと主張するデュナンに、イタリア軍参謀長ボルリノ(音月桂)は、生きるか死ぬかの戦場で差し出た正義感など迷惑だと言い捨てる。それでもデュナンは、何か自分に出来る事があれば手伝わさせて欲しいと医師のエクトール(彩吹)に頼むのだった…。

ショーの方はニコニコ動画で見た素敵なダンス(水と愛原)と歌の場面があります。

愛原さんはつかこうへいさんの一人っ子さん。

未来優希さんもさよならでエトワールも、エリザベートなどでも歌、演技が非常にうまい人で惜しい。CDがほしくなる方です。裏トップの貫禄!

二番手の方も昔の朝香じゅんさんのようににトップ目前で肩たたきでしょうか、切ないです。

この組の公演は中日劇場での水さんトップお披露目『星影の人』沖田総司/『Joyful!!II』観ました。

カラマーゾフの兄弟もテレビ鑑賞ですが読めない長編が良く出来ていました。
以下はWikiよりの引用です。

アンリー・デュナンはスイスのジュネーヴに生まれ、厳格なカルヴァン派の伝統のなかで育てられた。父親は福祉孤児院の仕事に関わり、母親も福祉活動に熱心だったという。

1859年、事業の請願のため、イタリア統一戦争に介入してオーストリア帝国と戦っていたナポレオン3世に会いにいき、北イタリアでソルフェリーノの戦いに遭遇した。この戦いは両軍合わせて20万を超える軍隊が衝突し、4万人近くの死傷者が出る激戦だった。デュナンは戦場に放置された死傷者の姿をみて、その救援活動をしている地元の女性たちの群れに入り、自らも救援活動に参加した。何故敵味方分け隔てなく救済するのかと尋ねられ、「人類はみな兄弟」と答えたのは有名。1862年その体験を書いた「ソルフェリーノの思い出」を出版、戦場において敵味方の区別なく負傷者の救護に当ることを目的とする赤十字の創設の契機となった。

1863年、ジュネーヴで負傷兵救済国際委員会が結成され、これが赤十字社の誕生に発展した。その後、各国赤十字社の創設から国際赤十字に向かっていく過程で、赤十字の活動範囲は戦争捕虜に対する人道的救援、一般的な災害被災者に対する救援へと拡大していったが、彼自身はこの活動から身を引き、世間からも忘れられていた。晩年、ドイツのシュトゥットガルトの老人ホームにいたところ、たまたま老人たちの話を聞いていたジャーナリストが彼と気がつき、それが1901年第1回ノーベル平和賞の受賞につながった。ちなみに、その賞金は本人の希望で全額赤十字に寄付された。

なお赤十字のマークは、彼の母国であるスイスの国旗が元となっているという説が有力である。現在、スイスのハイデンにアンリ・デュナン博物館がある。また、彼の誕生日である5月8日は、万国赤十字デーという記念日となっている。