<span itemprop="headline">ピースあいちの原爆の図展</span>
7月にサマーセミナーで(山本太郎、西山元記者講演会、 鎌田慧 原発と差別社会)このピースあいちで原爆の図展を開催すると知ったのですが
尊敬する丸木夫妻のこの作品は県美(初めて鑑賞した時の衝撃!)や埼玉の丸木美術館で見学したことがあります。
子供のとき読んだ本の挿絵でも丸木俊さんの絵には知らずに親しんでました。
平和地蔵とアンネのバラこちらに綺麗なバラの写真と解説があります。
映画「汚れた心」を見に行った映画館の下でまだ前売り券残っていたので買いました。ピースあいち、初めて行きました。
原爆の図は上の画像の「少年少女」と「とうろう流し」(猫の姿も)のみの展示でした。
ピースあいちが選んだ図です。
丸木美術館の学芸員さんの解説のビデオで美化されている少年少女、酷く死んだ姿は描くことができなかったと。この解説はピースあいちの方がおっしゃるようにわかりやすく確信をついています。
原爆の被害自体、アメリカに占領されている時代、特にタブーで原爆の図展を開催するにもご苦労されました。
一階では俊さんのインタビュー、多分、昔、テレビで見たと思います。お腹がすいて落ちていたかぼちゃを食べたら大変なことになったり、俊さんの描いた絵が見えなくなるぐらい墨を流した位里。
原爆の図15部はこちらで見ることができます。
(原爆の図 第14部 《からす》 1972年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)
『原爆がおちゃけたあと、
一番あとまで死骸が残ったのは朝鮮人だったとよ。
日本人はたくさん生き残ったが
朝鮮人はちっとしか生きの残らんぢゃったけん。
どがんもこがんもできん。
からすは空から飛んでくるけん、うんときたばい。
朝鮮人たちの死骸の頭の目ん玉ば、からすがきて食うとよ。
からすがめん玉食らいよる』
(石牟礼道子さんの文章より)
一番あとまで死骸が残ったのは朝鮮人だったとよ。
日本人はたくさん生き残ったが
朝鮮人はちっとしか生きの残らんぢゃったけん。
どがんもこがんもできん。
からすは空から飛んでくるけん、うんときたばい。
朝鮮人たちの死骸の頭の目ん玉ば、からすがきて食うとよ。
からすがめん玉食らいよる』
(石牟礼道子さんの文章より)
今、韓国だけでも一万五千人近くの被爆者が
原爆手帖さえなく暮らしているのです。
原爆手帖さえなく暮らしているのです。
(原爆の図 第13部 《米兵捕虜の死》 1971年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)
あなたの落とした原爆で
わたしたち日本人は三十数万死にました。
けれどあなたの原爆で
あなたのお国の若者も二十三人死んだのです。
わたしたち日本人は三十数万死にました。
けれどあなたの原爆で
あなたのお国の若者も二十三人死んだのです。
ひろしまに原爆が投下される前に日本爆撃にきたB29から
落下傘で降下した米兵を捕虜にしてあった。
女の捕虜もいたという。
米兵捕虜の最後の姿は、
どんな着物だったろう、どんな靴であったろう。
落下傘で降下した米兵を捕虜にしてあった。
女の捕虜もいたという。
米兵捕虜の最後の姿は、
どんな着物だったろう、どんな靴であったろう。
ひろしまを訪ねて驚きました。
爆心地近くの地下壕にいれられていた米兵捕虜たちは
やがて死ぬかもしれません。
いや、或いは生きたかもしれないのです。
けれどその前に
日本人が虐殺しているということを知りました。
爆心地近くの地下壕にいれられていた米兵捕虜たちは
やがて死ぬかもしれません。
いや、或いは生きたかもしれないのです。
けれどその前に
日本人が虐殺しているということを知りました。
わたしたちは震えながら
米兵捕虜の死を描きました。
米兵捕虜の死を描きました。
(原爆の図 第13部 《米兵捕虜の死》 1971年 屏風四曲一双 縦1.8m×横7.2m)