riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">「3,11大震災あえて後ろ向き」 ~ 僕は今でも、あの寒い体育館の遺体安置所で「ご遺族のすすリ泣く声」や「線香の香り」が蘇ってきます。</span>

3,11大震災 あえて後ろ向き・・・。

僕は、戦争は知りません。
だけど、
きっと、悲惨な戦争の空襲の時、こんなだったのだろうな・・。
そう思いました。

↓↓広島市。1945年8月6日、8時15分。ただ一発の原子爆弾は、広島を一瞬のうちに焼け野原に変えてしまった。

2011.3,11 
東日本大震災、戦後最大の未曾有の災害が襲った。


















                                                                                                      「もっと生きる筈だった…。
生きたかった筈だった・・・・・・・・。今を…。」

地獄のような光景。

現実ではないウソだと思いつづけた

国道45号が通行できるようになった事を聴いて
安否確認できない友人がいた
友の安否確認のために山田町にクルマを走らせた
道の脇には高くつまれた、瓦礫の山。ずっとつづいていた

自衛隊が次から次へと遺体を運んでいた




























ついたらウソのような地獄のような光景を見た
遺体安置所ではおびただしい遺体が無造作に並んでいた
線香の匂いも異様に感じた






























・・・・・・・・トラックの荷台に
10も20も重ねあげられた
ブルーシートに包まれ冷たくなった魂

すれ違う泥だらけの1BOX
全国からきてくれた葬儀社の方のものだった
遺体安置場へと永遠に続くピストン送

60センチに満たないブルーシート包み
顔だけのもの。身体の一部だけのもの

生後数ヶ月かな・・・。赤ちゃんの亡骸
ホントは沢山幸せになる筈で、沢山笑うはずだった

一瞬にして、全部消えた。


葬儀、火葬が間に合わず県外で火葬した
それでも間に合わず土葬もした

紛れもなく地獄をみた
フル回転する地元の火葬場

知り合いや親戚の多い俺は
何度も何度も
永久の別れを告げに行った

学生だったらしい女の子
寒い、遺体安置所で棺の側で彼女の頬をなで続ける
母が父が居た












隣の焼炉からは彼女と
同時刻に入る筈だった
やはり同じ亡骸がお骨になり
すすり泣く家族に抱かれ帰っていった

順番がくるおうが
静かに優しく愛娘に話かける
母親に俺も含めた参列者
ただの誰一人もが何も言えなかった

そんな事
昨日の事の様に蘇ってくる。


全て津波の黒い波に奪われた。

良く聴いた会話。
「ウチは○月の○日に見つかったから…」
「良かったねぇ…。」
これは亡骸になっても家族の元へ帰ってこれた

そんな会話の一部
不思議な会話だった

そのぐらい
家族の元へ帰れる事すらが
マレな事だった

感覚までもがおかしくなっていた

一歩踏み出すと言う事と
都合よく忘れ、『無かった事』にして
歩くは全く別の事.

あの日を忘れちゃならねぇ。















多くの笑顔が
一瞬で消えたあの日。

多くの思い出が消えた
あの日を
忘れちゃならねぇんだ。。

俺達はもっと先まで背負って行き、
少しでも伝え続けなきゃいけねぇんだ。

あのばぁちゃんが伝えたかった分を

あのおじさんが孫の誕生を楽しみにしてた分を

あの祭好きが
二度と楽しめない分を…

あの赤ちゃんがその先にあった
無限の人生の分を…

もっと生きる筈だった…

生きたかった筈だった
今日を…。















もっと俺達は大切に
生きなきゃいけない。

絶対に…
『無かった事に』
無駄にしては、絶対にいけねぇ

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                                                                                                                                                        そこで、まさに地獄絵を見ました。

三陸津波ー安否確認できなかった。『その1日目』
2011/3/27(日) 午前 7:09

http://blogs.yahoo.co.jp/sasaootako/60450555.html

つづき、三陸津波。安否確認できなかった。『その2』 
2011/3/27(日) 午前 8:58


避難所を探しても見つからず、仕方なく遺体安置所に行くことになった。

ブルーシートに包まれ冷たくなった遺体ががおびただしく並んでいた。

棺桶が間に合わず、まともに葬儀した遺族はいない。


戦争ってのを、僕は知らない・・・。

想像で戦争での時、こんなだったのだろうか・・?そう思った。


いまだに、不明者は多くいる。

月命日には捜査が行われているが・・。

もう、骨の欠片が見つかればいいほうです。

DNA鑑定に出しても、身元が分かるのは稀な事です。


そうなんです。

あの亡くなった方の死を無駄にしてはいけません。

僕は今でも
あの寒い体育館での遺体安置所で・・。

遺族のすすリ泣く声、での線香の香りが蘇ってきます。

生き残った僕らは、懸命にそれを伝え、懸命に生きなけばなりません。


転載元: 山と土と樹を好きな漁師