<span itemprop="headline">今日の庭の花・戦争を考えるシリーズ、7(朝鮮からの逃避行)</span>
今日は朝から小雨でしたが、だんだん上がってきました。
梅雨に濡れたアジサイなどがいっそい色鮮やかに見えました。
皆様も今日もお元気でお過ごしください。
今朝の庭の花です。
次第に色がついてきました。
この紫はどんどん濃くなっていきます。
ビヨウヤナギも咲き始めてきました。
アナベルも、どんどん白くなってきました。
クチナシもたくさん咲いています。
甘い香りが漂ってきます。
キツリフネソウも咲き始めました。
この辺には自生しています。
ガクアジサイの垢の色が、どんどん増してきました。
八重のアジサイもきれいに咲いてきました。
つぶやき(朝鮮からの逃避行・西村さかえさんの体験)
私は、大正4年、東京で生まれる。
昭和10年、夫の兄さんが、北朝鮮の羅津で金物屋をやっていて、そこに手伝いに行った。
兵隊のための資材、金物の需要が多く、兵隊が食料など持ってくるので、食べ物には不自由しなかった。
冬は零下40度で、部屋の中はオンドルで暖かかったが、朝鮮の浮浪者たちが「寒い。寒い。中に入れてくれ。」とよく来た。
20年8月敗戦、夫は病気で先に帰国していたので、私は義姉と、子供2人を抱えて、女ばかりで逃げた。
重い物は捨てて逃げるので、食料もすぐそこをついた。
途中、朝鮮人の下働きなどをして、物を分けてもらった。
幌馬車で逃げるとき、朝鮮人がカギ爪の棒で荷物をひっかけてきて、子供がひっかけられた人もいた。
朝鮮では、収容所に何度も入れられて、荷物を没収された。
翌年10月、ロコ島から佐世保に着き、夫とも無事再開し、姉に励まされやっと帰国できた。
上の子は途中で死に、背中に括り付けていた下の子だけが助かった。
今も娘にはその縛った跡が残っている。
朝鮮で得たものは何もなかったが、子供1人だけでも連れて帰ることができて、私は幸せだったと思う。
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朝鮮を植民地とし、総督府を置き、完全に支配下に置き、土地もタダ同然に安く買い取り、多くの資源、収穫物も日本に持っていきました。
韓国の人々は、独立回復運動を繰り返しましたが、その都度弾圧され、特高警察、密告制度で何も言えない状態で支配を受けました。
特に学校では、日本語、御所遥拝を押し付け、韓国の文化を否定しました。
職もなく、土地もない人々が、仕事を求めた大量に日本に来て、現在の在日韓国人へとつながりました。
日本の生命線などと勝手に理由を付け、朝鮮、満州を支配し、弾圧してきた日本人は、敗戦と同時に、恨まれ、迫害を受けました。
西村さんのように、命からがら日本に逃げ帰った人がたくさんいました。
他国を自国の都合で武力をもって支配、攻撃することは許されることではありません。
もし日本が韓国に生命線だからと武力で攻め入られ、日本語も禁止され、徴用され、土地も奪われ、資源を奪われたらどう思うでしょう。
日韓の植民地支配の問題は決して消し去れませんし、忘れてはいけません。
その謝罪、反省なくて、決して真の友好、対話はないでしょう。
今安倍政府は、日本の存続のためと言って、日本が攻められていなくても、武器をもって世界と戦えるという法案を出しています。
どんな理由を付けても、武力で納得の解決は絶対ありません。
必ず戦争勝者の敗者への抑圧、支配は起こります。
日本だって今も勝者の米軍に支配、抑圧されています。
そんな過ちをまた繰り返そうとする安倍政府の法案は、認めることはできません。
2度と他国への武力攻撃、支配、抑圧はしてはいけません。
話し合い、経済・生活援助に徹し、世界の信頼を回復すべきです。
転載元: 日々の感想、出来事など