<span itemprop="headline">「あさが来た」と渡辺崋山・高野長英</span>
昨日、今日の朝ドラ「あさがきた」は久しぶりに面白かったです。
昨日はあさ夫妻が女性の進路についてコスプレして笑わせてくれました。
音楽家、教師、医師、看護士…
思い出すのは明治初年の5人の女子留学生です。
先輩女性たちがその後苦労重ね、女性の職場や社会的地位を上げていきました。
それでも私が卒業した時も4大卒業女子学生には求人が非常に少なかったものです。
今は専業主婦希望が多いらしいのですが、私は若いころ無職の時は死んでるような気がしたものでした。
引用です。
1871年(明治4年)、日本で初めての女子留学生が太平洋を渡り、アメリカへと向かいました。津田梅子(6歳)、永井繁子(10歳)、山川捨松(11歳)、吉益亮子(14歳)、上田悌子(16歳)の5人です。年齢がかなり若いのに驚きますね。
しかし、この5人のうち上田悌子は体調不良、吉益亮子は眼病を患ったことが原因で、1872年(明治5年)に日本に帰国してしまいます。一説にはホームシックが原因ともいわれています。
永井繁子は10年間の留学生活を無事に終え、帰国後は海軍大将男爵の瓜生外吉と結婚しました。その後は女子高等師範学校、東京音楽学校で教員として勤めました。
今回は、特に帰国後の活躍が目覚ましかった津田梅子、山川捨松のエピソードをご紹介します。
■津田梅子 津田塾大学の創始者であり、女子教育の先駆者
しかし、この5人のうち上田悌子は体調不良、吉益亮子は眼病を患ったことが原因で、1872年(明治5年)に日本に帰国してしまいます。一説にはホームシックが原因ともいわれています。
永井繁子は10年間の留学生活を無事に終え、帰国後は海軍大将男爵の瓜生外吉と結婚しました。その後は女子高等師範学校、東京音楽学校で教員として勤めました。
今回は、特に帰国後の活躍が目覚ましかった津田梅子、山川捨松のエピソードをご紹介します。
■津田梅子 津田塾大学の創始者であり、女子教育の先駆者
障害児教育に生涯を捧げた石井筆子は東京女学校を卒業後、皇后の命によりヨーロッパに留学。帰国後、筆子は津田梅子と共に華族女学校の教師となり、筆子はフランス語科目の授業を受けもった。そのときの教え子に貞明皇后がいた。また鹿鳴館の舞踏会にも度々参加し、「鹿鳴館の華」と評判だった。
今日の「あさが来た」は
(江戸時代に女性の数学者がいた)
⇔もし成功したら他の銀行を引き離せる
真面目で根性の据わった、撃たれ強い女性を選ぶ
小さな失敗でもおとこはんにそれ見たことかと言われる~失敗はするな
(あさ)
あさをいつもさりげなく応援する夫がいいですね。
娘は商売に母親を取られて寂しい裏返しで母親には批判的
目覚めて指導的立場の大事な人を残酷な死に追い詰める権力者
歴史が進みません。歴史上の大損失です。
これは今の問題ですね。
政治や社会に対する批判者ではなくセンサーと思って
違う意見が有れば安全になるという磯田道史氏の意見に賛成です。
又詳しくUP出来ればよいのですが。