riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">波間の闘争想像せよ 沖縄の現状をブログで訴える 目取真(めどるま)俊さん(作家)</span>




波間の闘争想像せよ 沖縄の現状をブログで訴える 目取真(めどるま)俊さん(作家)

沖縄在住の作家、目取真俊(めどるましゅん)さん(54)が二〇〇八年から書くブログ「海鳴りの島から」を読むうち、会いに行きたいと思った。決して多作ではないこの人が《小説を書くどころか本もろくに読めない》とつづる現状をじかに聞きたくて。
 「午前九時ごろ海に出て、夕方四時ごろまでカヌーをこぎます。カヌーを片付けて家に戻り、次の日のためにウエットスーツや着衣、サングラス、カメラなど所持品をすべて洗い、それからブログに一日の出来事をアップして、夕食は九時か十時。寝るのは午前一時ごろ。こういう生活が続いています」 
 名護市で会った作家が語る。穏やかな口調に、静かな怒りがにじむ。
 「海」とは、同市辺野古の海岸。ジュゴンが泳ぎサンゴの群生する豊かな海をつぶして、米軍の海上ヘリ基地を造る計画が進む。目取真さんは小説を書く手にカヌーのパドルを握り、反対運動の仲間と日々海に出て、強行される工事への抗議活動をしているのだ。
 いらだつ政府は海上保安庁の職員を動員し、カヌーを転覆させ、抗議船の乗船者に暴力を加える。陸上に広がる米軍の基地「キャンプ・シュワブ」の前には機動隊を配置して、抗議の住民を排除する。「日本は民主主義を捨てて、ファシズムに足を突っ込んだ」と目取真さん。自身も海保にカヌーをひっくり返され、冬の海に投げ出された。
 「今年は戦後七十年で、戦後の日本は戦いがなく平和で…」といった言説とは隔絶した事態が進む沖縄。ブログは、政府の横暴に抵抗するその現状を伝える。沖縄は戦時中も敗戦後も日本の捨て石にされ、「戦後」などない-と訴える著書『沖縄「戦後」ゼロ年』もある作家は、市民の抵抗運動の中に自ら身を置く。
 「沖縄人は、今ある基地負担をなくすのではなく、さらに新しく造られる基地を止める闘争を強いられている。物書きとして一番収穫のある五十代という時期を、それに費やして終わるのかと思うと、むなしさを覚えることもあります」
 それでもカヌーに乗る。そしてブログでこう書く。《沖縄で訓練をしたあと米兵はどこに向かうのか。どの戦場で人を殺し、あるいは殺されるのか。(中略)沖縄の大地も森も海も空も70年にわたって戦争で儲(もう)ける者たちに利用されてきた。そのためにどれだけの住民や自然の中で生きる生物が殺され、生活を破壊されてきたか。想像するだに怒りが込み上げてならない。沖縄はいつまで「悪魔の島」であることを強いられねばならないか》(二〇一五年二月九日)
 「日本も沖縄も、厳しく問われなければならない。ベトナム戦争の悲劇のこちらで、米兵がばらまくドルで大もうけしていた人もいた。そこには、ベトナムで死ぬ人たちへの想像力が欠けていた」
 想像力。その言葉を目取真さんは何度も口にした。芥川賞の受賞作「水滴」や川端賞を受けた「魂込め(まぶいぐみ)」をはじめ、沖縄の戦争と戦後、そこに明滅する人間の生死や感情を、鮮烈なイマジネーションで描いてきた人ならではの言葉だ。
 「同じ弾圧を東京でやったらどうなるか。沖縄は地理的にも心理的にも遠いから平気でやる。福島もそうです。原発事故から四年もたつのに、まだ仮設住宅で暮らさなければならない人がいる。彼らの小さな声も聞こうと思えば聞こえるのに、安倍(晋三)首相や菅(義偉)官房長官たちは聞こうとしない。福島や沖縄を局所的な問題として軽視するのではなく、自分の問題として日本全体を見る視点を持てば、この状況は危ないと気づく。その想像力を持つべきです」
 そう説く目取真さんの中で今、さまざまな体験や感情、思念が深く沈殿している。それはいつか、小説のかたちになるだろう。
 「カヌーに乗って波に揺られているときに全身で感じたことは、小説を書くときに必ず生きてくる。小説はすべての体験をプラスに転じられる。無駄な体験は一つもないんです。ブログでの報告は大切だけれど、もっと小説を書きたい。でも、ブログを見た人が辺野古の現場に来て抗議行動に参加してくれること、それが今の一番の望みですね」 (三品信)