<span itemprop="headline">幕府に背いて人々を救った伊奈半左衛門</span>
今年の憲法記念日にこのチラシをもらいました。
今年はテレビドラマ金さんや法然を演じた梅之助さんがお亡くなりになり寂しいことです。
この舞台のチケットを探したのですがよくわからず、生協の店に買い物に行ったらそこで前進座の人が来て売っていました!
いつも演劇のチケットは生協も販売しているのに、これは有りませんでした。なぜ?
生協が後援しているのに。
生協の店で良い席がありますよと売ってくれたのが
生協の店で良い席がありますよと売ってくれたのが
前から3番目のど真ん中。
ところが劇場に行くと前3列がガラガラ、脇や後ろの方は観客が座っているのに、売り方がまずいですね。
正面前が誰もいないのでは役者も困るでしょう。
いつもの中日劇場公演ならこんなことにはならなかったでしょう。
さてこのお芝居、歴史番組でも取り上げられているのに私は知りませんでした。
新田次郎原作 「怒る富士」
江戸時代の富士山 宝永噴火と代官伊奈半左衛門が題材です。
舞台には富士山の絵と思ったらそこが映像になり噴火の状況も見せます。
駆け落ちしようとする二人が地面が揺れているのに気が付きます。
大勢の農民たちが登場して転がり噴火の状況を伝えます。
これだけでも泣けてきます。
賢い村娘や伊奈の奥方も登場します。
演劇など見るのは勿体無いと言う方もいますが小さい時から見なれているので止められません。
海外では夫婦同伴でオペラや演劇観ますが日本では女性中心、
前進座は男性も多いですね。
蜷川さんの追悼番組をいくつか観ました。
あの役者への罵倒は鋳物の街川口出身だからなのですね、納得、
ぼやぼやしていたら大やけど等の怪我につながるから大声で注意するのです。
宝永噴火と代官伊奈半左衛門の話は、強力(ごうりき)たちの口を通して最初に耳にした。
宝永噴火のため田畑が砂に埋まり、農民が餓死に瀕しているとき代官伊奈半左衛門は、駿府にある幕府の米蔵を開けて飢民を助けたが、その咎を受けて幕府に捕えられ、江戸に送られて、死罪になったという話に私は感動した。
引用です。
全国の大名領や天領に対し強制的な献金(石高100石に対し金2両)の拠出を命じ、被災地救済の財源とした。江戸幕府が全国的課税を行ったのはこの時が初めてであった[22]。しかし集められた40万両のうち被災地救済に当てられたのは16万両(『折たく柴の記』)で、残りは幕府の財政に流用された。宝永5年中に金48万8770両余、銀1貫870目余が集まり、被災地救済に支出されたのは6万2500両余とする史料もある(『蠧余一得』)。御厨地方の生産性はなかなか改善せず、約80年後の天明3年(1783年)には低い生産性に加えて天明の大飢饉が加わり、「御厨一揆」が起こった。
今も同じですね。義捐金が集まっても本当に現地の人に渡ったのだろうかと。
この時も大奥の改築や朝鮮通信使のために橋の架け替えなどに回されてしまったのです。
なんとか餓死を救おうと伊奈半衛門は奔走しました。
↑劇場前に飾られている童子車~子供たちのために
引用です。http://wheatbaku.exblog.jp/25114504/
私は「富士山頂」「芙蓉の人」など富士山頂と関係のある小説を書いたが、もっと大きなスケールで富士山を書きたいと思った。
私は伊奈半左衛門忠順の人物から調査を始めた。
私は「富士山頂」「芙蓉の人」など富士山頂と関係のある小説を書いたが、もっと大きなスケールで富士山を書きたいと思った。
私は伊奈半左衛門忠順の人物から調査を始めた。
関東郡代としての業績はかなりはっきりしているが、駿府の米蔵を開けて飢民を救ったという記録は何処にもなかった。
しかし、駿東郡内を調査していると伊奈半左衛門の伝説は、伝説というよりも固定観念として根強く残っていることにまず驚いた。
江戸時代から伊奈半左衛門を祭った小祠があちこちにあったが幕府の眼をおそれて例祭日を設けなかったなどという話は、伊奈半左衛門の死がなにか異常であったことを思わせた。
しかし、駿東郡内を調査していると伊奈半左衛門の伝説は、伝説というよりも固定観念として根強く残っていることにまず驚いた。
江戸時代から伊奈半左衛門を祭った小祠があちこちにあったが幕府の眼をおそれて例祭日を設けなかったなどという話は、伊奈半左衛門の死がなにか異常であったことを思わせた。
伊奈半左衛門が切腹したという記録はないが、調べて行けば行くほど、その死が尋常なものではなかったように思われて来た。
小説「怒る富士」は資料倒れするほと資料を集めた。そしてその引用を明らかにするよう努めた。
私としては今までになく気張った小説であった。小説としての興味よりも、真実のとしての興味に、何時の間にか引張りこまれていた。
いい仕事をしたという満足感はあった。
あとがきを正確に書いたわけではありませんが概略を書きました。
もし「怒る富士」を読む機会がありましたら、あとがきから読むのもよいと思います。
私としては今までになく気張った小説であった。小説としての興味よりも、真実のとしての興味に、何時の間にか引張りこまれていた。
いい仕事をしたという満足感はあった。
あとがきを正確に書いたわけではありませんが概略を書きました。
もし「怒る富士」を読む機会がありましたら、あとがきから読むのもよいと思います。
さて、幕府が、駿東郡59か村を「亡所」にするという場面があります。
「亡所」というのは、先にかいたように「災害などで人が住めなくなる場所」ということです。
「亡所」というのは、先にかいたように「災害などで人が住めなくなる場所」ということです。
人は住めない土地となるので、そこに住む百姓たちは税を納める必要はないということになります。
一見、幕府が被災地を配慮して、「亡所」に指定しているかのように思われがちですが、これは、配慮したわけではなく、そこで生活していた百姓たちを救済しなくなるということです。
新田次郎は、「怒る富士」の中で、亡所の意味を次のように書いています。
「山野が一面火山灰に覆われていて、復興開発ができないから、住民たちは何処にでも勝手に離散して生活しろと幕府の奉行はいう。
しかし、百姓は、どこの国にいく方便もなく、ただただ餓死を待つばかりとなった。
しかし、百姓は、どこの国にいく方便もなく、ただただ餓死を待つばかりとなった。
こうした無為の救済策をとることに関東郡代・伊奈忠順は納得しません。
現にそこに住んでいる人がいる限りそれを救済しようとするのです。
そのため、適法でないやり方で、駿府の米蔵を開かせるのでした。
米蔵を開くということは百姓を救済することであり、幕府の「亡所」という施策に対する抵抗となります。
そして、責めを一身に背負って切腹して果てるのでした。
米蔵を開くということは百姓を救済することであり、幕府の「亡所」という施策に対する抵抗となります。
そして、責めを一身に背負って切腹して果てるのでした。
追記
チラシに他の配役も載せてほしい。
パンフを買えばよかったです。