<span itemprop="headline">シネマ歌舞伎阿古屋</span>
2017年1月7日(土)より全国上映が始まる新作、シネマ歌舞伎『阿古屋』の予告動画が公開されました。
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シネマ歌舞伎第26弾として2017年の年頭を飾るのは『阿古屋』。豪華絢爛な衣裳と、玉三郎が奏でる琴、三味線、胡弓の音が、シネマ歌舞伎ならでは迫力の高画質、高音質で堪能できることでしょう。公開まであと3カ月余、待望の予告動画が公開されました。
今回のシネマ歌舞伎では、竹田奴を勤める俳優や演奏者、そして衣裳や床山ほか舞台を支える人々が、『阿古屋』の上演に向けてそれぞれの仕事に打ち込む姿も見ることができます。客席からは決して見ることのできない鳥屋からのアングル、楽屋の様子などは、この予告動画からも垣間見ることができます。
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15分を超える開幕までのドキュメンタリー
「阿古屋は1回座るとあまり立たないんですね。重忠も岩永も榛沢(はんざわ)もほとんど動かない。それをシネマ歌舞伎にということで、苦心惨憺してシネマ歌舞伎でしか見られないところを見ていただくことにしました」
これまでも『二人藤娘』など舞台裏を見せた作品はありましたが、「さすが歌舞伎座の舞台裏だとわかるようにしながら、裏を見たことで表の動かないところが動いて見えるようにしました。どうして座ったきりで芝居ができるのか、わかるようにつくったつもりです。夢を壊すことなく、想像力が膨らむように」。たとえば、出番はたった3分ほどの竹田奴が楽屋で試行錯誤する様子も映し出されます。「裏側で多くの人の手がかかっていることを見ていただければ、衣裳ひとつとっても、違って見えるのではないでしょうか」。
「お客様の前に出ていくまでの瞬間、自然の緊張感があって凛々しさがある。仕度をして鳥屋に入っていくまでの捕手の道筋。楽屋でああでもないこうでもないとやっていた人たちが、舞台裏に入ってくるときの“しん”とした感じ。私がいつも感じている共演者たちの姿を抜き取りました」。幕が上がるまでの清々しい時間と空間を語る玉三郎のナレーションが、臨場感あふれる映像とともにたっぷり流れます。
玉三郎にしかできない映像編集
幕が開いてからも玉三郎の“たくらみ”は続きます。「本編の編集はほとんどやりました」。複数のカメラを駆使してさまざまな角度から撮影した膨大な映像から、「見るべきところを編集することで、そこで表現されていることをよりしっかり見えるようにする」のが、玉三郎の編集です。それは、時間の流れに合わせて必要なカットを当てはめるような単純なものではありません。コマのつなぎ方で、自然と演出や演技の意図をも伝えるのです。
たとえば、琴を弾くアップで阿古屋の中で思いが馳せていると想像させ、舞台全体を見せることで、音がお白洲の中に響き渡る中、重忠が判断を下そうとじっと耳を傾けていることがわかります。「どこを見たらいいか選んでいる感じはあります。三味線の掛け合いなど、視線を渡す様子もうまくコマをつなぎ合わせないと、見合わせている感じになりません。細かい作業なんです」。
三曲の中に込められた阿古屋の思いが『阿古屋』という芝居の面白さ
玉三郎の演じる阿古屋は、恋人の景清の行方を知らないと言い、重忠は言葉に嘘がなければ音色も乱れないはずと、琴、三味線、胡弓の三曲を弾かせます。阿古屋は「遊女でありながらも潔癖、強いところがあるのにはかなさを感じさせます。知っていてしらを切るのは政治の話。知らないからこそ平家の悲しさがあり、そこのはかなさがすごくよくできています」。
「三曲の中に意味があり、曲の中でひたすら掛詞を入れていく。三味線で“翠帳紅閨(すいちょうこうけい)”、男女の恋の姿を語り、胡弓で鶴の素籠りの手を弾いて身ごもっていることを言う。曲で言うところに芝居としての面白さがあり、芸事を得意とする女で教養のある人物の相手もできる、利発で知性があるところが役として面白い」。義太夫の歌詞の完成度の高さ、美しさは、『壇浦兜軍記』のなかでも群を抜いていると、玉三郎は語りました。
やはり三曲は難しい
「三曲はとても難しいんですが、難しい役という先入観があって、簡単にやればいいものを難しくしてしまうところがあります」。いずれやるだろうからと父(14世守田勘弥)に言われ、20歳までに三曲を上げ、初演(平成9年1月国立劇場)が決まってもう一度やり込んだという玉三郎。「初演の頃は楽屋でひと通り弾いて舞台に出て、楽屋のほうがよかったんじゃないかということがいっぱいありました。自然に入れるようになったのはここ5年くらいでしょうか」。
技術だけでも難易度の高い役であり、もちろん技術以外の表現力も必要な阿古屋。「私が生きているうちに、次の人が出てきてほしい役。正直言うと、私のところで途絶えるのは困るなと。一緒に舞台に出て伝えるのが一番手っ取り早いんです」。シネマ歌舞伎『阿古屋』に残された、舞台を支える人々に向ける玉三郎の視線、声の一つひとつに、より一層の重みが感じられる言葉でした。