riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">続ロダン美術館のゴッホやバラ</span>



 

アイアンの階段、シャンデリア、花のアレンジ、素敵でしょう。


 



ロダン美術館 (Rodin Museum in Paris) は、フランスのパリ7区にある美術館。

オーギュスト・ロダンの自己の作品及びロダンがコレクションした美術品を中心として所蔵する。

ここでゴッホルノアールに会えるのは嬉しいですね。
オルセーは日本に多数の作品が行っていましたから。
ゴッホのこのタンギーじいさん、浮世絵もあり、明るくてとてもいいですね。


 


 
wikipedia
美術館の建物は1908年から亡くなるまでの10年間、ロダンがアトリエとして使い、そして暮らした「ビロン邸」(Hotel Biron)である。


 


 

1911年にフランス政府がビロン邸を買い取ることとなったときに、この館を気に入っていたロダンが、自己の作品及びコレクションを国家に寄付するので、美術館として残して欲しいと提案した。ロダンの死後の1919年に開館した。














別館として、パリ近郊のムードン(Meudon)に、ロダンがもう一つ、アトリエ兼自宅としていた館が美術館となっている。
 




  



主な所蔵作品 [編集]
ロダン地獄の門」(The Gates Of Hell/La Porte de l'Enfer)
ロダン「大聖堂 」
ゴッホタンギー爺さん」


アトリエでのロダンや『バルザック像』の写真がご覧になれます。

現在、ロダン美術館として使用されている建物は、1728年~1730年にかけて造られました。設計を手がけたのはシャンティイの大厩舎の建築で知られるジャン・オーベール。彼はヴェルサイユ宮殿の天井画を描いた宮廷画家フランソワ・ルモワーヌの手を借りて、ロココ芸術の粋を集めた建築を完成させました。この屋敷が「ビロン館」の名を得たのは、幾人かの所有者を経た1753年、フランス衛兵隊の総司令官ビロン将軍が館を手に入れて以降のことです。
将軍は建物にはほとんど手を加えませんでしたが、庭園をパリ有数の美を誇る姿に変貌させました。その後、1820年にこの領地がサクレ=クール修道会の手に渡ると、庭の一角に小さなチャペルが建てられ、屋敷からは華美な装飾がはいされていきました。

私が今朝から住むようになったこの美しい建物を、ぜひ見にいらしてください。……まるで古いタピスリーのようです」。1908年、詩人リルケは敬愛するロダンに手紙を送りました。修道会の手を離れたこの屋敷は、当時、安く貸し出されており、リルケの他、詩人ジャン・コクトー、画家アンリ・マティス、舞踊家イサドラ・ダンカンなど、その野趣溢れる雰囲気に魅了された多くの芸術家が暮らす場となっていたのです。
 リルケの招きに応じてやって来たロダンは、さっそく庭に面した1階の部屋をいくつか借りることにします。わずかな調度品と自らが収集した絵画や古代彫刻のコレクション、そして自作に囲まれて制作に没頭できる空間──。

潤・us醇Pe Rodin
(Photo Eug醇Qne Druet)
ビロン館をことのほか気に入ったロダンは、ほとんどの時間をここで過ごすようになり、その2年後の1911年、国がこの領地を買い取ることになった際にひとつの提案をします。「全作品と美術コレクションを寄贈する代わりに、この館を自らの美術館に」
ロダンの彫刻6600点、デッサン7000点のほか、彼が収集した絵画や古代彫刻のコレクションを収めるロダン美術館には、現在、年間50万人もの人々が訪れます。

追記  写真ばかりアップして何も知らないと痛感、近くの古本屋に探しに行くと、

さあ、連れて行けと言わんばかりに前に探していて入手できなかったボタニカル・アートと花の名画「百合の美術館」 が現れました!

ロダン関係もアール・ヌーヴォ建築の本もないので帰ろうとしたら積んである本の一番上に!

図書館も休みで本屋さんへ
図説「アール・ヌーヴォ建築」「日本のステンドグラス小川三知の世界」
創元社のエレーヌ・ピネ著「ロダン 神の手を持つ男」
ゲット

「フェニミズム&アート」、服飾史、世界のステンドグラスの本もほしいけれど見送りました。

ロダン 神の手を持つ男」高階秀爾の序文によると


日本ではロダンの名前は早くから知られていた。1980年に岡倉天心東京美術学校での講義でロダン特質は「力」の表現にあると触れている。
地獄の門は完成していなくて評価も賛否両論の時代に。

1908年、天心はパリのパンテオン広場の「考える人」を見た。
萩原守衛や高村浩太郎もパリでロダンの作品に触れた。

1910年に雑誌白樺はロダン特集号を刊行。ロダンに誕生日を問い合わせるなど文通。雑誌の記念に浮世絵30点を送るとロダンからは返礼としてロダン夫人」「ある小さき影」「ごろつきの首」の三点のブロンズ像が送られてきた。


1864年、20歳のお針子ローズはロダンと出会う。

息子が生まれたが認知も正式な結婚もしなかった!それなのに53年も献身的にロダンに尽くしたローズ。

「花飾りのある帽子をかぶった少女」は長い間ローズとされてきたがそれは違う。とこの本にあります。まあ、びっくり。

ロダンの遺産を大勢の女性が狙っていたので、友人たちがローズとロダンを正式に結婚させることに。結婚式は1917年1月29日
ローズは同年2月16日に、ロダンは11月10日になくなった。

カミーユ・クローデルは元々ロダンと似た作風で力のある人だった。
私が知ったのは映画からです。若い時の可愛いこと。
懸命に制作する姿と晩年の精神病院での悲しい生活の様子が忘れられません。