<span itemprop="headline">足助のひな祭りと密室の戦争</span>
ガラス越しのお雛様
御殿飾りは伯母が持っていましたが
下の方にある小さな台の上に2体ずつ人形があるのは初めて観ました。
昨日はフィットネスの後、レトロな県庁分室の戦争資料館と
ピカソ展に行きました。
今日の朝ドラ「あさが来た」で浅子の娘が京都の高等女学校に入学、
寄宿舎が出てきたので
昔を思い出してぐっときました。
名古屋女子大創立者越原春子は名古屋帯を考案し
芸術文化センターでそのちらし貰ってきました。
その昔、中馬街道は三河湾でつくられた塩を山間部へ運ぶための「塩の道」でした。 矢作川を川舟で上り、古鼠(ふっそ=現豊田市)で荷揚げされた塩は、足助の塩問屋で 荷直しされ、信州方面へ中馬によって運ばれていました。中馬とは、江戸時代の中ごろ、 ...
http://www.cbr.mlit.go.jp/road/chubu-fukei/route/04.html一昨日は夫が足助の雛祭りを観に行こうと
ところがまだ木曜日で雛人形が飾られていたのは一軒だけ(苦笑)
ちゃんと調べてから行かないと。
今日からです!
瓦、立派です。
古い大きな招き猫
和菓子やさん
ラッコと猫
鰻屋さんに置いてあった雑誌に
先日観た「母とくらせば」の
山田監督と吉永小百合さんの対談が載っていました。
フランス映画「あの日の声を探して」
日本は矛盾ばかりですね。
原爆投下されたのに、アメリカをほとんど非難せず、
危険な原発をどんどん増やして廃棄物どうしようもないのに再稼働。
原発始めた中曽根の姿を下のドキュメントで観ました。
詳しいブログ
私が、最も関心を持ったのが海軍主計大尉・稲垣利一のたどった道だった。海軍経理学校では、中曽根康弘
と同期だったが、1942年8月、ニューギニアのポートモレスビー攻略を目指す作戦に参加、武器も食料も断たれた悲惨な中で、マラリアで倒れた。敵兵が近づいたときに、拳銃を2度こめかみに当てて自殺を図ったが、泥水に濡れた拳銃は機能せず、捕虜となっている。英語力はじめその能力をかわれ、尋問官からは、諜報活動への協力を依頼される。半年間の苦悩のすえ、極東連絡局(Far Eastern Liaison Office)FELOの一員となって、ジョージ・イナガキとして、投降を呼びかけるビラの制作などにかかわったという。
と同期だったが、1942年8月、ニューギニアのポートモレスビー攻略を目指す作戦に参加、武器も食料も断たれた悲惨な中で、マラリアで倒れた。敵兵が近づいたときに、拳銃を2度こめかみに当てて自殺を図ったが、泥水に濡れた拳銃は機能せず、捕虜となっている。英語力はじめその能力をかわれ、尋問官からは、諜報活動への協力を依頼される。半年間の苦悩のすえ、極東連絡局(Far Eastern Liaison Office)FELOの一員となって、ジョージ・イナガキとして、投降を呼びかけるビラの制作などにかかわったという。
集合写真で並んでいた中曽根の歩んだ道を、稲垣も見ていただろう。その思いは如何ばかりであったろうか。また、それを知った私たちは、中曽根の罪悪を、そして今日の日本に至らせた私たちの責めを思わずにいられない。家族にも語れず、ひそかに亡くなっていった人々を思うと、決して繰り返してはならない戦争の過酷さに思いはいたる。