riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

終戦ではなく「敗戦」というわけ,学院倶楽部からのメール

またまた間があいてしまいました。

残暑お見舞い申し上げます。
お盆です。
お月様も少し出るのが遅くなって欠けてきました。
来月には秋のお月様になるわけです。
立秋も過ぎました。
 
広島の原爆の日、長崎の原爆の日、もちろんソ連参戦の日、そして日航123便墜落事件の日も過ぎました。
そして今日8月13日は、2004年に沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した日です。
米軍が現場を規制し、警察も立ち入れなかったことを覚えていらっしゃることと存じます。
 
白い放射能防護服を来た作業員がいた、そういう写真を去年6月の前泊博盛先生の講演で教えていただきました。放射性物質、すなわち核物質を積んでいたヘリが落ちたわけです。
 
沖縄所属のオスプレイがオーストラリアで墜落したのに、すぐに飛行再開になるのは、まさに巧妙な植民地(と気づかない植民地)支配の日本だからであり、2004年の時もそうだったわけであり、北方領土問題も、1985プラザ合意も(1985日航機事件も)、米国債購入やドル購入も、安保法制も秘密法も、TPPも、云々かんぬん、みなつながっていると考えておくと間違いないわけです。
 
そう思って、明日、14日そして15日を迎えるわけです、9月2日にかけて。
 
関西の自由党関係から、反戦な家づくりさんのブログは出所を明示すれば、引用してよろしい、と先ほどもMLで教えてくれていますので、13日の記事を下に貼付けておきます。
 
 
(引用開始)

反戦な家づくり

木の家をつくる建築家。国産材と自然素材で平和な家を作ります。戦争と放射能は人間と共存できません。地上から無くすためにはどうしたらいいのか、毎日考えています。
2017-08-13(Sun)

終戦ではなく「敗戦」と言うわけ

二日後には72回目の敗戦記念日だ。

私は「終戦」という言葉を使わない。
理由はみっつある。

ひとつ。
戦争責任をアイマイにしないため。

ふたつ。
敗戦を「解放」記念日にできなかった日本人民の不甲斐なさを胸に刻むため。

みっつ。
いまだ敗戦-占領は終わっていないことを忘れないため。

戦争は、雨が止むように自然に終わったのではない。
普通の国ならばとっくに降伏していたはずのところを、無謀な玉砕戦を1年近く引き延ばした挙げ句、万策尽きて無条件降伏したのである。
侵略戦争をはじめたという意味での戦争責任ももちろん問われなければならないが、ただひたすら「国体護持」のために兵士と住民に死を強いた責任も、決してアイマイにしてはいけない。

天皇制と、その権威にぶら下がる権力と利権、すなわち「国体」の為だけに、どれだけの兵士と住民が殺されたのか。
少なくとも、1944年10月に始まった神風特攻は、戦争としての合目的性すらなくしてしまったという合図である。そこからの10ヶ月間は、絶対に勝てないと分かりながら「国体護持」のためだけに死を強制された。

もちろん、日本各地の空襲も、沖縄戦も、原爆もそうだ。

侵略戦争の責任は、当然ながら万死に値する。
そして、世界中で今もその罪を犯し続けるものは絶えないし、あの太平洋戦争だって、連合国が善で枢軸国が悪という分類では決してない。
しかし、当時の日本が極めつきに異常だったのは、「国体護持」のために、自軍と自国民を虫けらのように死に追いやった ということだ。数十万、数百万人を死に追いやり、産業は壊滅し、国土は燃え尽くされても、そんなことよりも「国体護持」が大事だった。

この異常さは、自らの国のこととして、決して忘れてはいけない。
この国の支配者は、自分たちの存立が根底から脅かされるとき、数百万の自国民を平然と死に追いやり、恬として恥じないのである。
そういう国なのだ。

これは国民国家ではない、ということでもある。
天皇の権威と権力に連なる階級と、生産と戦争の駒としてのみ扱われる階級は、一つの国民として結集する段階に至らず、農奴的な隷属関係でのみ国家につながれているということだ。

そして、それは本質的に今日でも変わっていない。
変わっていないその象徴こそが、日本国憲法の1条と9条だ。

国体護持のギリギリの条件とは、天皇の戦争責任を問わずに天皇制の権威を残すことだった。
そのために、幣原喜重郎マッカーサーが合意したのが9条だったということは、数々の資料で証明されつつある。

さらに、国体護持のために生け贄にされたのが沖縄だ。
昭和天皇は、自ら保身のために沖縄の割譲をマッカーサーに提案した。
国体護持のために絶望的な地上戦を強制され、住民の1/4が殺されたあげく、負けた後は生け贄でアメリカに引き渡す。
天皇の戦争責任はあるとかないとかの論争がバカらしくなるほど、あまりにも酷い話しだ。

このように、「国体」のために国民は死を強制されながら迎えたのが、敗戦なのである。
この悔しさを忘れないために、私は「敗戦」と言いつづける。



一方でしかし、民間人50万人を無差別に殺戮した当事者は、米軍だ。

日本軍のアジアでの虐殺や捕虜虐待は、当然責められるべきことだ。
しかし、それと同じくらい、米軍の無差別殺戮も責められなければならない。

実験のために二種類の原爆を投下し、日本が降伏するやABCCという研究機関が乗りこんできて、治療はせずに被害のデータ収集に励んだ。まさに、超弩級の人体実験である。

この悪魔のような米軍を、解放軍として迎えたのが、日本共産党を筆頭にした反戦派の日本人だ。
たしかに、国体護持のために自国民をいくらでも殺してしまう旧支配者よりは、マッカーサーのほうがずいぶんマシに思えたのは無理はない。
日本国憲法も、押しつけとは言え、日本側が作った松本案とは比べものにならないくらい良いのはたしかだ。

しかし、日本人は自分たちで自分たちの憲法を作ることができなかった、という歴史は残っている。
良い憲法ならもらい物でもいいじゃないか、では民主主義ではない。民主主義を謳う現憲法は、自己矛盾をかかえているのである。

1946年米よこせデモ。1947年2.1ゼネスト(未遂)など、日本の民衆、すなわち国体に支配されていた側の運動も大きなものだったが、残念ながら2.1ゼネストに対するマッカーサーの禁止に屈したのち、国体そのものを揺るがすようなうねりとはならなかった。

結局、国体にぶら下がっていた「ちょっとマシ」な連中がそのまま国家権力を継承し、国体に押しつぶされていた民衆は、そのまま支配され続けることになった。
戦争に負けたことで、これまでの支配層を打ち破り、敗戦を解放にする ということができなかった。
敗戦が敗戦で止まってしまった。

大きな意味では、現在に至るも、構図は変わっていない。
そのことを 歯がみして思い起こすために 私は「敗戦」と言いつづける。



もはや言うまでもないが、米国の占領は1945年から72年間、一度も途切れることなく続いている。

1952年を境に、形式的な占領から、実質的な植民地支配へと変化はしたものの、日本はいまだ独立していないし、独立していない植民地に民主主義など成立するわけがない。

日本を「民主国家」だとか「憲法で平和を守れ」と安易に口にする護憲派の皆さんは、植民地でどうやって民主主義が機能するのか、考えてみてもらいたい。
そりゃもちろん、民主主義が機能してほしいと思うし、今憲法を変えるのは大反対だし、平和であってほしいのは当然だけど、安保条約、地位協定、密約、さらには官僚と政治家とマスコミに張り巡らされたネットワークは、植民地以外の言葉が当てはまらない。

オスプレイが墜落して、日本国防衛大臣が飛ばさないでくれ、と言っているのに、完無視して次の日から飛ばし続けるのが「日米関係」だ。日本の大臣よりも、米軍の現地司令官のほうがずっとエラいのである。これは自民党だったからとか、小野寺がヘタレだったからというだけではなく、政権交代しようが何党であろうが、同じことだ。
だいたい、「飛行停止命令」ではなく、「自粛要請」しかできないのだから、どんだけ格下かということだ。

2.1ゼネストを禁止されたあの関係は、いまも続いている。
なんとかして、米国の支配の軛を脱しないことには、何かを決めるということすらかなわない。

そのことを忽(ゆるが)せにしないために、私は「敗戦」と言いつづける。

■参考資料

数字は証言する データーで見る太平洋戦争 (毎日新聞)

アジア歴史資料センター公開資料
(引用終わり)
 
おしまい
 
 
※おまけ
9月1日は児玉真美さんの「死の自己決定権のゆくえ」講演会です。
イーブルなごや第4集会室で18:20~20:30、会費は1000円(学生500円)です。
 
ハヤト裁判から「いのちの差別を許さない」現況報告もあります。
 
経済的徴兵制を想起させるような、自らが志願したかのように、死を自己決定するように人々が仕向けられている今日この頃であります。いのちの問題が、財政問題だとか他の問題にすり替えられて、尊厳などないかのように、しかしそれが尊厳だ、というようにして扱われているのが世界の現状だと知ったら、あなたはどうしますか?
 
生きるに値しない命だからと、「無益な治療」をやめてよいでしょうか?
生きるに値しない命と誰が決めるのでしょうか?
 
実は意識があるのに、それを訴える術をもたないだけで、「植物状態だ」とされて、いのちをないがしろにされている事例がいくつもある。
 
こちらがただ気づかないだけで、気づく能力やゆとりを持たないだけで、相手を見殺しにするとしたら、その相手にとって、これほどの絶望はないわけです。
 
児玉真美さんのお話を、ぜひお聴きくださいますよう、心より、慎んで、切に御案内申し上げます。
 
合掌
 
終戦とテレビで聞くたびに間違ってると思います。
私は終戦などと言ったことはありません。

 

NHKスペシャル 「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 2017年8月13日

 
 
昨日のNHK731部隊に関する番組を見てTwitterに書いたものをまとめます。
 
 戦時中に満州北部「平房」(ピンファン)で人体実験をした関東軍防疫給水部通称731部隊NHKで取り上げられた。部隊を率いた石井四郎が生物兵器開発や人体実験などを隠蔽するために徹底的な証拠隠滅を命じたので、戦後名簿を作って交流していたことは初めて知った。家族にも言えなかっただろう。
 石井四郎は京大医学部から、陸軍軍医学校に。後に「東郷部隊」(東郷は石井の偽名)という秘密部隊を結成。関東軍司令部に属していたが、東京の参謀本部と直にやりとりをし、国家予算をふんだんに使いながら研究を進めたそう。未来を嘱望された研究者をリクルートし、人を人と思わないような研究を実施。
 自分たちの暮らす土地に侵略してきた日本軍に対して抵抗する人々を「匪賊」と呼び、その人たちを捕まえては人体実験の道具「マルタ」として、人の命を助けるという医の倫理をかなぐり捨てた医学者たちが自分の研究成果のためにあり得ないような残酷な実験を繰り返した。マルタは全て殺された。
 マルタには囚人扱いされた「匪賊」のみならず、女性や子どももいたと言う。確かに死体ではなく、生体でなければリアリティのある「実験データ」が取れないだろう。「匪賊」憎しの世論がこのようなメチャクチャな人体実験の後押しになったとも。アメリカに研究成果を渡したために戦犯逃れをした幹部たち。
 勇猛果敢と言われたはずの関東軍は敗戦でいち早く日本に逃げ帰り、取り残された満蒙開拓団はじめ民間人は塗炭の苦しみを味わった。戦犯になるはずの石井四郎に代わり、ハバロフスクの公判で裁かれた1人の軍医は医の倫理に立ち返ったのか、責任の重さに押しつぶされたのか公判後に自死したという。
 731部隊出身者は戦後日本の医学界や製薬業界などで、731部隊で得た「研究成果」をテコにしてそれぞれが重鎮になった。ブログにもその一端が掲載されている。戦時には「人の命」がどれだけ軽くなるのかと思う。特に「敵」の命は。
 しかし、この731部隊出身者は「墓場の中まで持っていかなくてはならない」ような秘密を抱えたまま生涯に渡って気の晴れるようなことはなかったのではないかと思う。地位や名声があっても、自分の良心の声には敵わないだろう。今日語った証言者たちもずっと誰かに語りたかったはずだ。
 NHKの番組では国が進める大学での軍事研究に警鐘を鳴らしていた。一度軍事研究を始めてしまったら、予算が付くし、人員も増やせるしで、やりたかった研究が可能になる点で有能な研究者には喉から手が出るほどの環境だろう。でも、自分の研究が人殺しのために使われることは全力で拒絶するべきだ。
 戦争中に人体実験をしても、戦争犯罪として裁かれず、却ってその研究成果により出世してしまった人には悔悟する機会もなかったかもしれない。「上司の命令に従っただけ」というニュアンスの言葉は本当だろうけど、責任逃れでもある。知的エリートが「凡庸な悪」と化した場合はかなり悲劇的だ。
 高校時代に「平和ゼミナール」の活動で証言を聞かせてもらった陸軍登戸研究所化学兵器や謀略兵器を製造していた)の元研究員の人たちも、731部隊同様、敗戦後真っ先に資料の隠滅を図るよう上層部から命令が来たという。戦争犯罪に該当すると認識していながら研究開発していたことの証左だ。

転載元転載元: 情報収集中&放電中

 

映画「黒い太陽」「登戸研究所」や「悪魔の飽食」は出た頃に読みました。
知ってはいても辛くて。こんな暴虐の限りをつくした日本人は何を言われても、滅んでも仕方ないと罪の重さに…
京大で研究続けたくても拒否すると破門すると言われて、京大から731部隊に入った医師が多いのは石井のせいですね。

日本に帰国してから自殺した医師もいますが出世して大学教授になった人もいます。
膨大な研究費を餌に、今の原発でも同じです。

ライオントークやプロジェクションマッピング、ナイトズー、2

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東山動物園上池階段付近の灯アート動物園
 
 
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昨日は植物園まで行きました。
動物園と植物園、歩いて往復。
上のスカイビュートレインで往復(500円、片道300円)も出来ますが。
 
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もっともっと派手な衣装のフラダンスのグループも待機、
練習風景も見かけました。
 
プールの前の噴水が気になったのですが
この時は噴水が上がっていませんでした。
 
フラが終わらないと上がらないのか。
ライオンの飼育員トークが気になり、遠い距離を引き返すことに
なりました。
 
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動物園入口でも、この植物園でもライブ、屋台も一杯。
ここではハワイアン
 
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温室入り口
温室の中もライトアップ
でもまだ早いのでいつも通り
 
イギリスのキューガーデンのような温室は改装中
 
 
ライオンのサンはお年でもカッコいい
 
シャバーニとイケメンチップスの顔になるわけです。
バックやクッションなども販売しています。
 
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2つともカード入り
 
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孤高のユキヒョウ、ユキチ?コハク?
ポストカードでも180円ぐらいするので。
動物園に寄付する気分で。
 
 
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7時からのライオントークの頃には凄い人出
隣のトラ舎のあたりも狭い道なので
往来困難になりました。
 
右の方はライオンに近づけるワオチューブ、大勢並んでます。
ボケボケですが真ん中あたりにお父さんライオンさんが歩いています。
 
左の赤いシャツの方がトークしてくれますが赤ちゃんが泣くわ、
子供に足踏まれるはで、トークが聞こえにくい。
 
プロジェクションマッピングが始まるので北極熊舎へ移動。
あれー
 
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ここも凄い見物人でした。
大きな木が2本あり邪魔だと言う声が~
マッピングも生の動物見ていた方が良いぐらいのもので
 
でも猫科の動物の檻はもう、だれもいなくて…
私は明るいうちにスナドリネコ、ユキヒョウのユキチ、
マヌルネコのハニーちゃん、(ニャニャニャと鳴いてました)
 
西日にあたりながら寝ていたヒョウのアスカさん、
ハクビシンがどどっと木に登るシーンなど見ておきました。
カンガルーは動いていて観られます。
 
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スナドリネコ
 
魚とって食べます。
和名は英語名 Fishing Cat の意訳で、「漁をする」意である「漁(すなど)る」の名詞形「漁(すなど)り」を「猫」に冠した合成語で、すなわち「漁り猫」である。
 
顔はツシマヤマネコに似ていて可愛い。
 
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ジャッカル
狐か犬のようで愛らしい
 
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横浜金沢動物園から移動してきたインドサイのブンタ君、
すっかりおとな。7歳?
お父さんはキンタロウ
 
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飼育員トークでリンゴなど貰うニルギリさん、26歳だったか。
スイスからきました。
 

 

ナイトズーに車で行くにはよほど早く行くか地下鉄がいいでしょうね。
周囲は車が渋滞、進むことも戻ることも出来ません。
 
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凄い飼育員渡辺さんのトーク!ナイトズー2回目

昨夜は土曜日で先週のナイトズーとは大違いの激混みでした。
 
名古屋じゃないみたいwww
 
東山動物園の名物飼育員の渡辺さんのトークを偶然聞く
事が出来ました。
 
今回はライオン、カバ、キリントークに参加できました。
 
 
息子一家と暮らしていた、
赤ちゃんキリンのおばあちゃん、オグラさん、2014年12月7日(日)
死亡しました。
倒れる直前まで食欲も良好だったそうです。大往生
 
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東山動物園の名物飼育員の渡辺さん
 
キリンの舌をみせるためにおびき寄せます。
 
キリンの舌はなんと、4,50センチ
 
舌の色は黒、紫色
 
舌が日焼けをしないよう、紫外線を吸収しにくい黒色(黒紫色)になっている。
 
 
 
 
 
 
先日キリン舎の前で寄付したのでカードやバッジを渡辺さんから頂きました。
 
これぐらい目立つ方がいると動物園訪問も楽しい
 
ライオンの若いオス、ソラちゃんの出勤は(外の放飼場)
午前中なので朝いちに行きます。
パスポートゲット
 
前に記したようにキリンには5本の角があるとか、
ダチョウの名前が「社長」「部長」で今はトリインフルエンザの影響で別の場所にいる話でした。
 
キリンのメイちゃんは京都の動物園にお嫁入り
 
ヒョウのチャゲ&アスカ今はアスカしかいませんが。
 
これも知らなかった
 
行けば発見がある動物園、はまってます~
 
昨日の夕方アスカさん、西日が当たるところで寝ていました
 
ペルシャヒョウのシラツさん
 
東山絶滅動物園に写真載ってますが片目が白内障のようでした。
19歳の時、ご長寿表彰されたようです。
もういません。
 
 
 
 
 

今日は一日ミュージカル三昧♪


【初演映像】ミュージカル『にんじん』PR動画(新橋演舞場・大阪松竹座)

 

 
残念ながら曲がカットされてます。もう腹が立つくらい。
音楽なしては味気ないものです。
出演者のライブは聞けます。
 
 
昨日の出演者は
 
 
敬称略です。昔はスターは敬称無し、そのほうが大スター
 
 
昨年は草笛光子や「王様と私」の渡辺謙
今年は「にんじん」の再演の大竹しのぶも出演
 
「にんじん」、観ます。
「私がにんじん」「あの子がにんじん」とか色々考えさせられるでしょう。
「サンセット大通り」やりたいと、あの狂気、往年の大スターの役絶対似合いますね。
彼女は映像も舞台も見逃したくないです。
 
 
 
SDカードで録音できるデッキを買おうかと思ったり
母の古いCDラジカルで録音出来るかと、でもやはり駄目でした。
 
雑音ない「らじるらじる」で視聴してました。
これも録画できるのですがよくわからずトホホ
 
ランチにもラジオ持参でした。
0時20分から10時まで
 
35.GOLD~カミーユロダン~:GOLD(新妻聖子
36.レ・ミゼラブル:Bring Him Home(新妻聖子/スタジオ生歌唱)
37.モーツァルト!:僕こそ音楽(新妻聖子/スタジオ生歌唱)
 
女性が男性の歌を歌ったり、スタジオ生歌唱は舞台より緊張するようです。
 
22.ウェストサイド物語:Something’s Coming(小野田龍之介/スタジオ生歌唱)
23.サンセット大通:Sunset Boulevard(小野田龍之介/スタジオ生歌唱)
24.ミス・サイゴン:サン・アンド・ムーン(宮澤エマ・小野田龍之介/スタジオ生歌唱)
 
44.ラヴ・ネヴァー・ダイズ:LOVE NEVER DIES 〜愛は死なず(平原綾香
 
小野田、宮澤、平原もう上手い人ばかり声がいい
 
最後は井上、中川、濱田、浦井で大盛り上がり、
楽しかったですね。スヌーピーのほえ声も♪
 
最後の曲は.
 
 
 
やはり一度聴いたら忘れられない唯一無二の中川晃教
 
芸大卒多い今のミュージカル界で安定した歌が楽しめるようになり、
 
昔とは大違いですが(歌えないアイドルが金返せ状態もありました)中川君の歌は教えても真似は出来ないでしょう。
 
 
城田優もブロードウェイに進出したい、フランスミュージカルの曲好きなど同感です。
 
ミュージカルスターにはあふれる思いがあるのでしょう。
良い機会です。
濱田さんの始めは宝塚に憧れたけど劇団四季に入ったらとその日に台本渡されたとか
彼女凄いも才能ですから。
 
昨日は元々この番組がありナイトズーには
行けないと思っていたら
凄い雨でやはり行けませんでした。
 
今夜はライオンの飼育員トークもあるのでぜひ行きたい
マヌル猫のハニーさんに会いたい
 
 
もっとハニーさんの待遇改善お願いします
 
悪顔がだんだんいとしく思える不思議な最古の猫です。
 
 
 

尹東柱(ユン・ドンジュ)空と風と星と詩

尹東柱ユン・ドンジュ)空と風と星と詩を読みました。
映画よりこたえます。
 
映画の感想はこちら
 
引用です。
1945年2月16日、福岡刑務所で獄死した(満27歳没)。なお、獄中で注射を繰り返し打たれていたことから毒殺を疑う説もある[6]。絶命前に言葉を叫んでいるが、日本人看守には理解されなかった。尹東柱について書かれた伝記の中には、この言葉を朝鮮語であったろうと推測するものもある[7]。遺体は父が引き取り、龍井の東山教会墓地に葬られた。なお、ともに投獄された宋夢奎も3月10日に獄死した。
 
 
1968年には母校延世大学校において、尹東柱が暮らした寄宿舎の前に「尹東柱詩碑」が建立された。
尹東柱を偲ぶ会は1992年2月16日が尹東柱を顕彰するために同志社出身のコリアン(南北・国籍・ニューカマー等問わず)を中心に組織された。主として同志社大学を中心に活動。但し会員は広く門戸を開いている。よって 詩を愛する人、クリスチャン、歴史的な観点、等々様々な立場の人間が参加している。参加者は日本人・韓国人を問わず自由である。
また、京都の下宿(左京区田中高原町)は、その後京都造形芸術大学の敷地の一部となっている。2006年6月、京都造形芸術大学内の下宿跡地に「尹東柱留魂之碑」が建てられている。
WIKIより引用終わり
 
 
「それぞれの作品に年月日が付されているがそれは西暦
 
「詩人尹東柱の詩を決定づけた物証が、日本政府により禁止された母国語、朝鮮語による創作ノートで有った。
 
同じ獄につながれた従兄弟宋夢奎(ソン・モンギュ)も骸骨さながらの状態で死に追いやられた。
 
あえて日本に来た二人
 
なよまよしい詩心が圧倒する圧制の嵐の中でかぼそい生身を支え切り
奥歯も砕けんばかりの変節の強制を命に替えて拒否しさった意志の核であったとはただ息をのむばかりの抒情の質だ」 金時鐘
 
 
 
 
死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥いることもないことを
葉あいにおきる風にすら
私は思うわずらった。
 星を歌う心で
すべての絶え入るものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩いていかねば。
 
今夜も星が 風かすれて泣いている。1941.11.20(金時鐘訳)
 
以下も引用
 
尹東柱ユン・ドンジュ
詩集「空と風と星と詩」から  『序詩』
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)
 
死ぬ日まで 天を仰ぎ
一点の恥ずることなきを
葉あいを縫いそよぐ風にも
わたしは 心痛めた
星を うたう心で
すべて 死にゆくものたちを愛しまねば
そして わたしに与えられた道を
歩みゆかねば
今宵も 星が風にーーむせび泣く
 
山の辺を巡り田園のそば 人里離れた井戸を
独り尋ねては そっと覗いて見ます。
井戸の中は 月が明るく 雲が流れ 空が広がり
青い風が吹いて 秋があります。
そして一人の男がいます。
なぜかその男が憎くなり 帰って行きます
帰りながら ふと その男が哀れになります。
引き返して覗くと男はそのままいます。
またその男が憎くなり 帰って行きます
帰りながら ふと その男がなつかしくなります
井戸の中には 月が明るく 雲が流れ 空が広がり
青い風が吹いて 秋があり
追憶のように男がいます
4.愛の殿堂   (1938年)
5.たやすく書かれた詩 (1942年6月3日 立教大在学中) ←←すばらしい!「幼友達をみな失い」というくだりは、朝鮮語の詩を書くことでしか「抵抗」できない自分自身のふがいなさを詩っていると感じられる。
窓辺に夜の雨がささやき
六畳部屋は他人の国、
詩人とは悲しい天命と知りつつも
一行の詩を書きとめてみるか、
汗の匂いと愛の香りふくよかに漂う
送られてきた学費封筒を受け取り
大学ノートを小脇に
老教授の講義を聴きにゆく。
かえりみれば 幼友達を
ひとり、ふたり、とみな失い
わたしはなにを願い
ただひとり思いしずむのか?
人生は生きがたいものなのに
詩がこう たやすく書けるのは
恥ずかしいことだ。
六畳部屋は他人の国
窓辺に夜の雨がささやいているが、
灯火をつけて 暗闇をすこし追いやり、
時代のように 訪れる朝を待つ最後のわたし、
わたしはわたしに小さな手をさしのべ
涙と慰めで握る最初の握手。

6.序詩      (1941年11月20日)
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)
(注:立大チャペルでの追悼会は当初から伊吹訳が使われてきたと、受付の女性から聞いた。河津さんが指摘した訳詩の違いは、知らなければ見過ごすところだが、別訳を知ってしまった以上は、こちらの方が自然で相応しいと感じてしまう。→→すべて死にゆくものたちを愛しまねば
 
この詩集は購入して時折読みたいです。

 

猫とひまわり、バラ

昨日は高島屋の鉄道展に、熊本支援でくまもんが一杯。
 
 
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枕を脇の間にはさんでるブラン
この整理箪笥の上がお気に入り
 
私が結婚した当時は白い家具が流行、景気が良い時代だったから。
アンティークは茶色が多く暗くなります。
 
白い家具、桐で長持ちしています、あきない家具
ドレッサーと洋服ダンスの3点セット
 
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バラも毎日カットしています。
種から育てたひまわりももう終わり。
リボンしか水飲みに来ませんでした。
他のネコは熟睡中
 
 
どこかでお借りしてきたマヌル猫親子
賢そうなママ