riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">柳原白蓮展</span>






一目で男性がに恋いこがれるようなはかなげな美人です。
この楚々とした麗人が二番目の炭鉱王(伊藤伝右衛門)の夫を捨てて年下の学生のもとに走ったのです。当時の大スキャンダル。

炭鉱で働いた人たちの苦労思うと…

まだ姦通罪などがあった時代。
男の浮気は甲斐性ですが女が同じ事したら犯罪。

裕福な男は外に妾を囲うばかりか、妻妾同居させたり生まれた子は里子に出したり、女性にはとんでもない過酷な時代でした。


新聞屋さんにチケットもらったので柳原白蓮展観てきました。

やなぎはらびゃくれん(1885-1966) 歌人  

炭鉱王の夫の家が「赤銅(あかがね)御殿」を建て、迎え入れた。

日本庭園は大名庭園のようです。




暖炉はアールヌーボ。雛人形のコレクションには享保雛もあります。

六歌聖の人形の品のいいこと。

竹久夢二が装丁した著作などの展示。

伊藤伝右衛門が悪役になりすぎたという話もどこかで聞きました。

伊藤伝右衛門との記念写真はさすが、そっぽむいています。

宮崎龍介との間の一人息子香織もとてもきれいな青年だったのに戦死。

龍介は宮崎 滔天の息子。

(みやざき とうてん、明治3年12月3日(1871年1月23日) - 大正11年(1922年)12月6日)は、日本で孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家、および浪曲家である。浪曲家としての名前は桃中軒 牛右衛門(とうちゅうけん うしえもん)。

夫龍介は結核を発症した。一平民となった白蓮は筆一本で必死に家計を支えた。

1925年(大正14年)には長女、宮崎蕗苳(ふきこ)が誕生。龍介の結核は回復して、その後弁護士として活躍した。1931年(昭和6年)には龍介と中国を旅行している。

1945年(昭和20年)8月11日、長男・香織が鹿屋で戦死した。このことがきっかけとなり、戦後は平和運動に参加、熱心な活動家として知られた。一方、皇太子と正田美智子との結婚に際しては、松平信子ら旧華族出身者と共に強硬に反対した。

これは意外です。人間ってわからないものですね。


以下は引用です。

柳原白蓮 やなぎはらびゃくれん(1885-1966) 歌人
諦めていた恋の情熱にすべてを捨てて身を委ね再出発した歌人
 彼女は伯爵柳原前光の妾の子として明治18年、東京に生まれました。本名はあきこ(火ヘンに華)。大正天皇の従姉妹にあたる血筋です。そして、当時の慣習にならい、14歳で家族の決めた北小路子爵家の息子資武(すけたけ)と結婚し、15歳で男児を出産しました。しかし、精神薄弱に近い資武との余りにひどい結婚生活に見かねた白蓮の家族は、5年後に離婚させますが、子供は夫の母に奪われてしまいます。
 実家に戻ったものの、『出戻り』であるが故に幽閉に等しい生活を余儀なくされたあきこ。その生活が終わったのは27歳の時の再婚でした。相手は九州一の炭坑王の伊藤伝右衛門。けれど、それは貴族院議員に出馬するあきこの兄の金欲しさと名門の家柄を必要とした伊藤家、そして幽閉生活からの脱出を願うあきことの利害が一致した末の政略結婚でもありました。伊藤は『あかがね御殿』と呼ばれる豪華な大邸宅を作ってあきこを迎えるのですが、25歳年上の彼には女中を兼ねた妾や誰が産んだのかもわからない子供が何人もあったと言います。そんな生活のなかでも転機は佐々木信綱の門下生となったことで訪れます。
 歌人として注目されるようになったあきこ。彼女の戯曲『指蔓外道(しまんげどう)』の上演依頼のために訪れた東京帝大法学部に通う傍ら雑誌『解放』の編集をする宮崎龍介。それが運命の出会いでした。けれど、まだ人妻の恋愛が姦通罪として制裁されていた時代。さらに、あきこは30代半ばで、宮崎は彼女よりも6歳年下であり、社会革命の理想に燃える帝大新人会のメンバー。これは実るはずのない恋でした。 それでも二人の恋は燃え上がり、あきこは宮崎の子を宿します。それは二人の気持ちを確認し、固めたきっかけとなります。
 あきこは伊藤と上京した際に姿を消し、二日後、『私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます』という公開絶縁状を朝日新聞に掲載しました。これは帝大新人会の画策とも言われていますが、あきこ自身の確固たる意志と覚悟が明らかに示されているものでもありました。伊藤は毎日新聞にその反論を載せ、世論はこの問題に非常に沸いたと言います。
 この結末は、あきこの華族からの除籍と総ての財産没収により離婚の成立でした。あきこは再び実家の柳原家に一室に閉じこめられて、そこで男児を出産。そして、二年後の関東大震災のどさくさのおかげでようやく親子三人の生活が現実のものとなりました。
 平民となったあきこは経済的には苦しい思いをしたかも知れませんが、宮崎と添い遂げた半生は、決して不幸ではなかったはずです。知らなかった「恋」という感情に燃え、それを貫くためにそれまでの生活や人生を投げ捨てて愛しい人との最終発に賭けた彼女の思いは、当時の情勢を考えれが並大抵のことではないでしょう。
 日本史上では、激しい気性をそのままぶつけるような生き方をした女性が有名です。女性の生き方やそのプロフィールが詳しく残っているケースが少ない中、白連はその雅号の名の通りのような人ではないかと感じます。穏やかでありながら、自らを主張する強さを秘めている、静かな泥の中に存在を際だたせている白い蓮のような女性だったのではないでしょうか。(2000-10-04)



わが命惜まるるほどの幸を
   初めて知らむ相許すとき