<span itemprop="headline">時代(とき)を撃て・多喜二</span>
先日ご紹介した映画鶴彬 こころの軌跡を観に行ったら同じ映画館で時代を撃て・多喜二も上映していました。体調崩して、取り紛れているうちに1週間過ぎてしまいました。思い出しながら書いていますので間違いがあったらご指摘ください。
二作共とも、悲しい、許せないと思うけれど見逃さなくて良かった良質の映画です。機会があったらぜひご覧ください。
まず、訂正です。先回、鶴彬(つるあきら)の母役は樫山文枝と言ってしまいましたが、鶴彬を支えた女流川柳作家の先駆者・井上信子役でした。どなたかの記事をうのみにしてしまいました。反省です。m(_ _)m
鶴彬は本名喜多一二(きたかつじ)、何だか、多喜二の名前と、あれれ。この映画についてもまた後ほど。
小林多喜二の写真はこの写真しか知らなかったのですが正面から見た顔は小樽高商時代など、もっと優しい可愛い御顔です。ひょうきんで茶目っけもあったようです。
小樽高商時代、一学年下の伊藤整は図書館で本を手にするとほとんどの本に多喜二の書き込みがあり愕然としたそうです。
この映画の監督も小樽商科大学の蔵書に多喜二の書き込みがあるのを確認したそうです。
多喜二の恋人田口タキは身売りされたが、多喜二は借金をし、ボーナスをはたいて彼女を救いだした。ここにも正義感にあふれる誠実な多喜二の人間像が浮かび上がる。
多喜二の隣の家の上山初子は優しいお兄ちゃんだった多喜二が、逮捕され、自分の家の中にまで特攻警察が張り付き嫌な思いをした。さらに多喜二を拷問にかけ虐殺した人たちはなぜ、逮捕されないのかと、その通りだと思う。今でも冤罪で無念な思いされてる方もいますが、やった方は裁かれることはないでしょう。
映画の中で阪東妻三郎の「雄呂血」1925 の壮絶な斬り合いシーンが出てくるが、息子の田村さんが「父は身分差に苦しんでいたので多喜二を尊敬していた」という話などをしている。
「雄呂血」日本映画史上最高のチャンバラシーンと評され、剣戟映画の原点。世の中の矛盾を突いた反体制映画
多喜二や鶴彬のような人を見殺しにした後、もう戦争に反対することも心の中で嫌だとさえ思うこともで出来ず、日本は誤った侵略戦争へ突き進んだのです。
今の若者たちが多喜二の蟹工船に注目してくれたことはうれしいです。これ以上、きな臭い世の中にならないように。
以下は引用です。
1928年(昭和3年)2月、第1回の普通選挙が実施されたが、社会主義的な政党の活動に危機感を抱いた政府(田中義一内閣)は、3月15日、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行った。日本共産党(非合法政党の第二次共産党)、労働農民党などの関係者約1600人が検挙された。1600名の三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった。
1928年(昭和3年)2月、第1回の普通選挙が実施されたが、社会主義的な政党の活動に危機感を抱いた政府(田中義一内閣)は、3月15日、治安維持法違反容疑により全国で一斉検挙を行った。日本共産党(非合法政党の第二次共産党)、労働農民党などの関係者約1600人が検挙された。1600名の三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった。
小林多喜二の名作『蟹工船』は、プロレタリア文学の雑誌「戦旗」に1929年5月、6月号に掲載された。だが、天皇や皇室への不敬罪と言われ、伏字・削除で弾圧を受けたのは勿論、発売禁止となった。しかし、そのような状況にも拘わらず、わずか6ヶ月の間に次々と単行本が出て、約3万5000部が売れたという事実はそれほど読者を引きつけたということ。