<span itemprop="headline">「毒に愛嬌あり」</span>
入獄4回、罰金15回、発売禁止14回!
にほんのひのまる
なだてあがい
かえらぬ
おがらむすこの ちであがい
山形県の農民詩人木村迪夫氏の祖母つゑさんが1946年5月末に突然歌い始めた歌だという。強烈な 反戦歌である。つゑさんの長男は 中国に出征していたが、知らせのあった1ヶ月前に現地で病死していたという。終戦は1945年だから その1年後に 捕虜として、どういう状況で亡くなったのかは書かれていない。その祖母は“3日3晩、泣き明かした後、ご詠歌の節回しで、心の奥底からわき出る言葉を即興的に歌い始めたのだ。それより前、次男が太平洋の孤島で戦死したことが伝えられた時、つゑは天皇陛下のため名誉の戦死をしたのだと赤飯を炊き、祝っている。”とあった。
木村迪夫氏が 詩集“わが8月15日”に “祖母のうた”という章をもうけ、祖母の独創になる歌を10編収録したという。
この詩集の写真を担当した内藤正敏氏は、つゑさんの“ひのまるのうた”を 死者を大切にする東北の風土が、この歌の背景にあると言っているという。
“インテリは反戦だとか、怨霊だとか頭で考えるから、こんな詩は生まれてこない。理屈や論理を超え、子を産む女が体で歌ったような怒り、毒がある。東北の婆が、ものの見事に国家の本質を突いている。”
木村迪夫氏と 顔なじみのノンフィクション作家・吉田司氏も 次のように評している、という。
“あの歌は個人の思いを超えている。日本人の息子の血で赤いばかりでなく、アジアの犠牲者2千万人の血で赤いとも、読み解くべきではないか。”
なだてあがい
かえらぬ
おがらむすこの ちであがい
山形県の農民詩人木村迪夫氏の祖母つゑさんが1946年5月末に突然歌い始めた歌だという。強烈な 反戦歌である。つゑさんの長男は 中国に出征していたが、知らせのあった1ヶ月前に現地で病死していたという。終戦は1945年だから その1年後に 捕虜として、どういう状況で亡くなったのかは書かれていない。その祖母は“3日3晩、泣き明かした後、ご詠歌の節回しで、心の奥底からわき出る言葉を即興的に歌い始めたのだ。それより前、次男が太平洋の孤島で戦死したことが伝えられた時、つゑは天皇陛下のため名誉の戦死をしたのだと赤飯を炊き、祝っている。”とあった。
木村迪夫氏が 詩集“わが8月15日”に “祖母のうた”という章をもうけ、祖母の独創になる歌を10編収録したという。
この詩集の写真を担当した内藤正敏氏は、つゑさんの“ひのまるのうた”を 死者を大切にする東北の風土が、この歌の背景にあると言っているという。
“インテリは反戦だとか、怨霊だとか頭で考えるから、こんな詩は生まれてこない。理屈や論理を超え、子を産む女が体で歌ったような怒り、毒がある。東北の婆が、ものの見事に国家の本質を突いている。”
木村迪夫氏と 顔なじみのノンフィクション作家・吉田司氏も 次のように評している、という。
“あの歌は個人の思いを超えている。日本人の息子の血で赤いばかりでなく、アジアの犠牲者2千万人の血で赤いとも、読み解くべきではないか。”