riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">追悼勘三郎丈と連獅子動画</span>

ああ、ついにこの連獅子も生では永遠に観られなくなってしまいました。
 
今朝の朝日一面も勘三郎関係、京都南座勘九郎襲名公演の写真入記事です。
昨夜ニュースステーションで一部見ましたがご覧になればどなたも泣けてくるでしょう。
勘三郎と母の息子に生まれてきたことを誇りに思います」と
 
前にテレビで勘三郎に弟子のように真面目に仕える勘九郎さんの映像を観て感銘を受けました。
 
教師の友人は勘三郎が息子たちに教えるところが参考になったといいます。
 
私も今日はそのような勘三郎丈の真摯な映像を見ました。
 
天才のように見えるが努力の人だとお姉さんの新派の波野久里子さん。
 
9月の南座勘九郎襲名公演の折、息子の晴れの舞台に共演できない勘三郎にかわり玉三郎丈が出て
 
命を懸けてお守りするような意味のことをおっしゃられていて‥
 
やはり食道がんの状態もお悪かったのですね。
私は15時間ぐらいの手術を昨年受けてまだ今の所生きている不思議を感じます。
 
ずいぶん前に幸四郎さんの「ラ・マンチャの男」を観たときにちょっと沈んだ感じでおかしいなと思ったら
 
幸四郎さんの母上がお亡くなりになった直後だったのです。
 
「親の死に目に会えるぐらいの役者は駄目」と
先代の勘三郎丈が言われたとか。舞台は穴を開けることが出来ません。
 
 
 
 
今日の朝刊の弔辞には私が大好きなお二人の言葉。
 
まさか新しい歌舞伎座に出られないなんて‥劇場に足を運んだお客様が喜んでくれることを第一に考えていらした方、あの方の人生は芝居しかなかった、お客様を魅了する大きな力がありました。
 
 
太陽が消えたよう。権威のある人には強く、下のものにはやさしい。まさに太陽のような人だった。互いに首を絞めるんではないかと大喧嘩をしても次の日は「おはよう」とって言える家族みたいな関係だった。
仲間として本当に悔しい。
 
 
大竹が20歳の時のミュージカル「若きハイデルベルヒ」で共演して以来の大親友。「ここに彼がいないということが現実として考えられない。実感がない」と涙をこらえた。

 4か月間の闘病生活を陰ながら支えてきた。7月の食道がんの手術の際にも病院に駆け付けた。「手術して2日目にICU(集中治療室)で何十メートルも歩いていて、私と奥様で拍手をしたら、『大竹しのぶに拍手をもらっちゃったよ』と言っていた」と声を震わせた。「芝居の話をする時が一番楽しそうでした」。最後は体を動かせず、自由に話すこともできなかったが、「ピストルで撃つマネをしたら死んだふりをしていた。看護婦さんも笑ってました。誰からも愛される人でした」と悼んだ。

 この日の発表の舞台は仏歌手エディット・ピアフの人生を描くもの。大竹は20歳の頃に勘三郎さんにピアフの評伝本を勧められ、その存在を知ったという。「分厚い本を貸してくれたのに、返せないままだった」と悔やんだ。

 「歌舞伎界、演劇界は彼を亡くして、どうなっちゃうんだろうというのが正直ある。あの人の穴は誰も埋められないが、頑張らないといけないと思う。私が役者である限り、彼ががっかりしない芝居をしないといけない」と言葉に力を込めた。夜には再び、勘三郎さんの自宅を訪れた。
 
私が好きな俳優さんはつながっていました。
玉様の舞台を追っかけ勘三郎さんとの共演も出来る限り観ましたが、
名古屋城公演や中村屋ゆかりの中村区同朋高校の公演はぼやっとしていて、気がついたときは完売で観られませんでした。