<span itemprop="headline">ルーシー・リー</span>
やっとルーシー・リーの作品を観てきました。嬉しい!
名古屋市東区葵2 ギャリーフィールアートゼロ 車道駅
ハンス・コパーの作品は2010年に岐阜で観ることが出来たのですがルーシーの方はパラミタミュージアムの展示も見逃してしまいましたので。
上の左の女性がルーシー?
上のピンクの花器はありませんでしたが左のブルーの作品に似たものが245万円で売られていました。
直しがある黒っぽいC&Sは15.8万円。
有名なボタンは4つぐらいずつ、一つの額に入れられていました。
ルーシーもハンスもユダヤ人でイギリスに亡命して、陶芸を続けました。
イギリスを代表する陶芸家であったバーナード・リーチと親交を持ったが、電気式陶芸窯から生み出されるその軽く薄い作風に対しては、強い火と土窯から生まれる日本風の重厚なものに強く傾倒していたリーチから手厳しい批評を得ることとなり、以後、芸術面に経済面も加えて大いに苦悩する。当時を回想するに「キャベツの日々だった」、すなわち、キャベツばかりを食べる、お金の無い日々であったという。しかし、独自の方向性を大きくは変えることなく模索を続け、やがて、釉薬や線描、緻密な成分計量に基づく理論的工法などによる独特の繊細かつ優美な作風を確立した。リーチものちにこれを認め、推奨するまでになっている。
陶芸界の一部でのみ知られていたルーシー・リーの名が広く知られるようになったのはごく最近、1989年の『ルゥシー・リィー展』のこと。企画したのは彼女と親交のあった三宅一生。ウィーンの裕福なユダヤ人家庭に生まれたルーシー・リーはろくろの魅力に惹かれ、ほどなくその作品は国際的な賞を受賞、陶芸家として高い評価を得ていく。戦争の影響から1938年にロンドンに渡り、以後およそ半世紀にわたりロンドンを拠点に制作を続けた。バーナード・リーチやハンス・コパーらとともに現代陶芸の一時代を築き、先鋭的なデザインの作品を作り出したルーシー。93歳で亡くなるまで長い生涯にわたりひたすら器を作り続けたその人生は、制作の喜びと発見に満ちていました。会場ではイギリスBBC放送のインタビュービデオも放映予定、生前のルーシーの肉声が聞ける貴重な資料です。
鮮やかなブルーやピンクもありますが渋い作品もあり、日本や韓国の陶芸と関係があるのでしょうか。
ボタンはなんだか可愛い、上のサイトに画像があります。雛菊や中国人の帽子など。
なんだかボタンがほしくなりました。