riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">風船爆弾など作った陸軍登戸研究所の映画</span>

 
 
私はJ・デップとH・ボラム・カーターのファンなのでローン・レンジャー観に行ったのですが、大日本帝国の赤い旗のTシャツ来ていた少女を見かけぎょっとなりました。
 
 
 

 
和紙とこんにゃく糊で女学生たちに作らせた風船爆弾がアメリカまで飛んでいってオレゴン州の牧師一家と子供たちを殺傷したことは昔知りましたが、その中に一人の妊婦がいた事やその女学生が17年ほど前に謝罪の旅に出た事などはこの映画で初めて知りました。
 
こんにゃくで糊を作るためこんにゃく製造者が職を
学生たちは勉学に励むべき時間を奪われた。
 
2交代12時間労働させるためにビタミン剤と偽り覚せい剤を飲まされたり、
 
危険な毒瓦ガス工場で労働させられたり指紋が消える事故、
 
忠海高女の上級生は被爆地での救援活動さえもさせられた。
 
日赤の職員の指示で遺体解剖した内臓を計量することを求められたが新城先生が「生徒にはむごすぎる」と拒否。
 
 
 
明治大学生田校舎内には軍用地で研究所が使用していた木造棟が沢山立ち並んでいた。
 
極秘だった陸軍登戸研究所の存在、最盛期には1000人に及ぶ所員が殺人光線、生体実験、毒物・爆薬の開発、風船爆弾、ニセ札製造など、多岐にわたる研究に携わったと言われる。
 
原案日本映画学校「人間研究」7年の年月をかけて作られた映画です。
 
若い石原たみさんのインタビューが伴繁雄(自伝的告白書「陸軍登戸研究所の真実」を完成させるまでは鬼のような形相だった)の後妻の和子さんの苦悩を吐き出させたのか、この場面はとても感動的です。
 
「私は愛された事がない」
きっと妻は家事奴隷でろくに話しかけてももらえなかったのでしょう、今でも聞く話です、他人事とは思えません。
 
寝たきりになった杉本頼幸さん(茨城県大津市の海岸近くにあった風船爆弾放球基地気象班元曹長)之妻ふくさんの「耳元通訳」があって素晴らしいシーンになっています。
くらげのように群れをなしてサンフランシスコ方面に飛んでいく風船爆弾をみていたふくさん、放にの際に兵士3人が死亡したことに話が及ぶと目に涙をためた杉本さん、軍隊時代は猛々しい曹長であったろうに。
 
この夫妻の姿にも人間的なものが感じられるのに戦争というものは。
 
日本全土が空襲で消えても松本に天皇を迎えるために朝鮮人を使って大本営を作らせていたことはわかっていますがそれもここで研究。
 
 
登戸研究所(のぼりとけんきゅうじょ)は、神奈川県川崎市にかつて存在した研究所。大日本帝国陸軍が所管し、各種兵器の開発研究を行った。正式名称は「第9陸軍技術研究所」。
1939年(昭和14年)1月、「謀略の岩畔」との異名をとった陸軍省軍事課長・岩畔豪雄大佐が、陸軍の兵器行政の大改革を行い、兵器の行政本部、陸軍科学研究所をまとめて陸軍兵器行政本部を設け、その下に10の技術研究所を設立した。その第9研究所が現在の神奈川県川崎市東三田に置いた通称「登戸研究所」である。
前身は1919年(大正8年)4月に陸軍火薬研究所を改編させて発足した「陸軍科学研究所」のため、正式名称は「陸軍科学研究所登戸出張所」といった。所長には篠田鐐大佐が就き1939年9月正式に発足した。 1943年(昭和18年)6月、電波兵器部門を多摩陸軍技術研究所へ移管。1945年10月、「帝国陸海軍作戦計画大綱」が発表され、本土決戦準備のため、登戸研究所は長野に移転する。[1]
同年8月15日、敗戦が決定すると、陸軍省軍務課は「特殊研究処理要綱」を通達し、すべての研究資料の破棄を命令した。[2]それらの資料の殆どが処分され、また、ほとんどの関係者が戦後沈黙したため、長らくその研究内容は不明だった。
1950年に朝鮮半島朝鮮戦争が勃発すると、東側に対抗するため、戦犯免責者の公職復帰が行われた。登戸研究所関係者では第三科の関係者がアメリカ軍に協力し、 横須賀基地内の米軍印刷補給所で、偽造印刷の技術を使い、共産圏の各種公文書の偽造を行った。[3] 1952年に研究班の一部がアメリカ本土に移動、入れ替わりでかつて登戸研究所所長を勤めていた篠田が合流した。[4]
戦後、登戸研究所跡地は民間に払い下げられ、慶應義塾大学工学部が使用していたが、慶應義塾大学日吉キャンパスの復興にともなって移転したため、1950年(昭和25年)に11万坪のうち3万坪余を慶大が明治大学生田キャンパスに払い下げた。
 
下は映画comより
秘密兵器の開発拠点としてさまざまな実験が行われ、敗戦後に証拠隠滅のため歴史から抹消された陸軍登戸研究所の真相に迫ったドキュメンタリー。第1次大戦直後から密かに行われていた毒ガス兵器や諜報、防諜などに対応する資材、兵器の開発研究の流れを受け、1937年、神奈川県川崎市生田の丘陵地に陸軍の実験場が設立される。実験場はのちに「陸軍第九技術研究所」(秘匿名:登戸研究所)となり、太平洋戦争による戦乱の拡大で、最盛期には1000人に及ぶ所員が殺人光線、生体実験、毒物・爆薬の開発、風船爆弾、ニセ札製造など、多岐にわたる研究に携わったと言われる。戦後、歴史から存在が抹消された研究所で何が行われていたのか、6年に及ぶ歳月をかけてその謎を追い、当時を知る関係者らの証言を得て、全貌を明らかにする。