<span itemprop="headline">【ノーベル平和賞の歪み】ノルウェー政府の国家事業+ヨーロッパの金持の趣味?</span>
このことについて書く前に、安倍首相がしているコメントについても、触れておこう。
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<安倍晋三首相は10日午前の閣議前の写真撮影の際、今年のノーベル平和賞の受賞予測に「憲法9条を保持する日本国民」が挙がったことについて「結構、政治的ですよね」との感想を漏らした。
<安倍晋三首相は10日午前の閣議前の写真撮影の際、今年のノーベル平和賞の受賞予測に「憲法9条を保持する日本国民」が挙がったことについて「結構、政治的ですよね」との感想を漏らした。
石破氏は閣議後の記者会見で「平和賞の主体が人の行為であるということ。客観的な新しい発見、新しい技術の実用化とは異なるという、単に事実を話した」と語った。>
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これだけの長さの記事で、4面の少し下のほうに掲載されていた。
ただし、その他の物理学賞その他については、私が全く知識がないから、『主観的でないだろう』と思っているだけなのかもしれない。
ともかく、多少なりとも知識がある(経済学賞はほとんどないと言っても良いが、しかし多少なりとも『土地勘』みたいなのはある)賞について、どうしてもそのように感じてしまう。
特にその『主観的』な度合が激しいのが、ノーベル平和賞である。
仮に、安倍首相がこれまで、そのことに気が付いていないとしたら、随分、(総理大臣としては)『うかつな話』だと思う(実際には、そのことは『百も承知』のはずだ。朝日新聞やNHKにあれだけの、攻撃を仕掛けさせる『指揮者』がそれほど、うかつなはずはない)。
ノーベル平和賞は、ノルウェー国会が任命する5人の選考委員によって決定されるという。これは、いわばノルウェーの国家的な事業なのである(他のノーベル賞はスウェーデンが行っているが、そのうち、経済学賞は正式名称を、『アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞』といい、ちょっと異なる位置づけのようだ)。
ノーベル平和賞が、極めてユニーク?な賞であることは、2009年にオバマ大統領、2010年には、中国の劉暁波氏に送られていることなどを見てもわかる。
日本との関連でいえば、1974年に佐藤栄作氏(安倍首相の大叔父にあたる)に送られている。
佐藤首相は、非核三原則やアジアの平和に貢献したということで送られたらしいのだが、このころ、彼が『核付き』あるいは『核隠し』の沖縄返還をアメリカとの『密約』を交わしながら行ったことは、既に、日本国内では知られていた。
だから、このころ、私は大学を卒業して社会人になってから、それほど年数がたっていなかったが、この時点で『ノーベル平和賞』というものは、信用できないものだと感じた。
今年の受賞者についても例外ではない。
受賞者の一人、マララ・ユスフザイさんは、まだ17歳の学生である。
受賞者の一人、マララ・ユスフザイさんは、まだ17歳の学生である。
パキスタンの国籍であるが、イギリスで生活している。『女子教育の権利を唱えてイスラム過激派に頭を撃たれ一命を取り留めた』(『朝日新聞』の記述より)、いわば、こうした問題についての『シンボル』のような存在である。
彼女がいくら勇気があるといっても、まだ17歳に過ぎない。頭を銃撃されたのは15歳のときである。
そのような、若い女性をいわば『シンボル』『アイドル(偶像)』として、このような賞を与えることは、彼女の本当の人生の可能性という意味でも『重荷』になりかねない。
現に、平和賞発表の際の記者会見において、『彼女は若すぎるのではないか?』と質問した記者(日本人記者ではないようだ)もいたらしい。
極めて、『政治的』であり、あえて言うなら、『投機的』でもある。
まるで、ゲームをするような感覚、あるいは(表現は悪いが)馬券に投資をするような感覚で賞を選考しているように思えてならない。
まるで、ゲームをするような感覚、あるいは(表現は悪いが)馬券に投資をするような感覚で賞を選考しているように思えてならない。
もちろん、何事であっても、良い結果もありうるであろう。だが、その悪い結果、マイナスの影響に対しては、誰が責任をとるのか?
ノーベル賞委員会の5人の人たちにそのような責任をとることは、できないだろう。
だから、このような『賞』が世の中にあってはいけないと、まで言うつもりはないが、この程度の『賞』に対して、世界はあまりにも大きな権威と名誉を与えてしまっているように見える。
しかし、それは『ノーベル平和賞』などの権威に依拠するのではなく、日本国民自身の自覚と運動、そして、それに共鳴する外国の友人たちとの連帯の活動の中で、勝ち取らるべきものである。
転載元: 北京老学生・日本に帰国