riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline">差別生む原発許さない 定年退職の小出裕章・京大助教 </span>

引用させてもらいました。
大量にあった本や資料などはすでに捨ててしまったという=大阪府熊取町の京都大原子炉実験所で
 
 京都大原子炉実験所の小出裕章助教(65)が、今月末で定年退職する。強大な「原子力ムラ」と対決してきた四十年余。その歩みは負け続きだったと回想する。大学で教授のポストに就くことはなかったが、自らの思いには誠実に生きてきた。それは生後半年で亡くなった愛息に教えられたことでもあったという。福島第一原発事故の終わりが見えない中、大学を去った後も、自分にしかできない仕事を模索していきたいと語った。
 
 今月十七日、大阪府南部の熊取(くまとり)町にある京大原子炉実験所。小出助教の研究室の書棚を埋めていた大量の本や資料などは、数えるほどになっていた。「廊下や倉庫の書棚にあった分を含め、捨てました。どれも実験所の仕事にまつわるもの。定年と同時にその仕事はなくなります。これからの私にとっては意味のないもの」
 
 節目を迎える感慨についても「何もないです。定年は単なる社会的制度。雇用関係が切れるだけ」。あっさりした言葉は、簡単に語り尽くせない半生の裏返しのように聞こえた。
 
 一九四九年八月、東京都台東区の下町で生まれた。進学校の開成中学・高校時代は一日も休まない「良い子」。盛んに宣伝された「原子力の平和利用」という言葉に感化され、担い手になることを夢見た。
 
 都市化が進む東京を嫌って東北大へ。大学のある宮城県では女川原発の建設計画が浮上していた。原発立地を都会ではなく、あまりに危険であるが故に過疎地に押しつける差別の構図を知る。大学三年の七〇年、反原発の立場に転じた。
 
 「原発に反対するのは私自身のため。だまされた自分にオトシマエをつけるためです」。本人はこの姿勢を「徹底した個人主義」と名付けるが、独善とは一線を画すという。「地球上の命は全て掛け替えのない存在と考えるのが、私の個人主義。誰かの命を犠牲にし、差別を生む原子力は許せない」
 
 大学院修了を前に就職先として選んだのは原子力推進の研究機関、電力中央研究所だった。相手の土俵に乗り込み、原発をやめさせようとした。しかし、採用決定の寸前、女川原発の反対運動に参加していたことが伝わり、あえなく不採用に。京大原子炉実験所に応募し、七四年に入所した。
 
 そこで出会ったのが「熊取六人組」の仲間たちだ。実験所に属しながら反原発を訴えた六人を指す。七〇年代に始まった四国電力伊方原発訴訟で住民側の証人になったことから、彼らの存在が脚光を浴びるようになったという。
 
 六人のうち、小出助教の先輩は瀬尾健氏ら四人、後輩は一つ年下の今中哲二氏だ。「入所した当時から既に知っていた仲。皆、原子力に抵抗していたから」。六人組は週一回の会議のほか、自主ゼミや毎年の和歌山県合宿で熱く議論した。
 
 「原子力は複合領域。私は自分の仕事の社会的な意義を捉えたかった。そう考えたとき、六人組は大変ありがたい存在だった」
 
 小出助教は三人の息子に恵まれた。ただ、障害がある状態で生まれた次男は半年でこの世を去った。「人間の運命が不条理で不公平であることを心深く感じた。人間はいつ死ぬか分からない。自分の思いに素直に生きるべきだと強く思った」
 
 

◆福島、無視できない

 
 小出助教全共闘世代でもある。向き合ったのは、大学当局や機動隊だけではない。学問や科学のあるべき姿も問い直した。
 
 「人間には、未知の領域を知りたいという抑え難い欲求がある。研究者は国家や権力から独立し、真理の探究に専念すべきだ」
 
 自身がたどり着いた真理は「原子力は危険で破滅的であり、犠牲を押しつける差別の問題でもある」だ。だが、こうした考えは圧倒的に少数派だった。
 
 「突き詰めれば原子力は軍事の問題。日本という国家は原子力を進め、核保有につなげたい。そのため、原子力研究は国家の思惑に左右される。研究者はこの状況を自覚して行動すべきだが、出世したい、給料を上げたいと考え、国家に抱え込まれていった」
 
 熊取六人組は原子力の危うさを研究、公表し、原子力の利用に歯止めをかけようとしてきた。しかし二〇一一年三月、福島第一原発事故が起きる。
 
 「緊急事態を理由に、汚染地域に住民が捨てられている。捨てられれば、生活者として放射能を忘れ、復興を考えるしかない。『放射能を口にするヤツは復興を妨げる。黙ってろ』というのが、福島の現状だ」
 
 一方、故郷を追われた人たちも数多い。事故から四年たった現在、国は早々に生活支援を打ち切ろうとしている。「片や加害者の方は、誰も責任を取ろうとしない。異常としか言いようがない」
 
 反原発運動も一時の勢いを失ったように見える。「今は福島が忘れ去られる過程にある」。どうしたらいいのか、という問いには「分かりません」とだけ答えた。
 
 小出助教は「負け続きだった」と振り返る。ただ、助教というポストについて「実験所で最下層の地位」と認めながらも「私には大変恵まれた立場。居心地がよかった」と話す。
 
 実験所での仕事は、所内で出る放射性排水などの処理だった。「自分の仕事をきちっとやる限り、上司は一切注文を付けず、自由にさせてくれた。私は最下層の職員なので、命令する人もおらず、自分がやるべきこと、やりたいことに集中できた。個性を重んじる京大の校風があったからこそで、反原発を訴え続けても最後の最後まで弾圧されることはなかった」
 
 定年退職後、新たな定職には就かないという。生まれ育った東京にも戻らない。「信州で暮らします。暑いところが苦手ですし。妻と相談して、何年も前から決めていました」
 
 がらんとした研究室で、小出助教は達観したように「仙人になります」とも語った。しかし俗世と距離を置くことは、そう簡単にできそうにない。「福島原発事故は、敷地の中でも外でも進行中です。完全に目をつぶることはできません」
 
 実験所を離れれば、放射線関連の機器も使えなくなる。さらに自らの老いも実感している。しかし、淡々とこの先を見据える。
 
 「定年なんて、本当に大したことじゃない。年を考えると、仕事はだんだん減らさざるを得ないですが、私でなければできない仕事があるのなら、引き受けようと思っています。ただ、半年先という範囲で。半年以上先は、生きているかどうか分かりませんので」

小出先生、お疲れ様です。
幼い息子さんをなくされていることはこの中日新聞で知りました。

姜尚中草刈正雄さんも息子さんをなくされて、子供に先立たれるのは辛すぎますね。

半年以上先はいきてるかどうか、わからない、皆そうです。
これからも講演会などに頼りにされると思いますがゆっくりされてほしいです。

差別なしでは成り立たない原発、日本の核武装や第企業の儲けのための原発、あまりにも酷すぎます。

この地震大国に、狂気の沙汰としか思えません。
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