riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">ブーリン家の姉妹とガーデン</span>


 














左がアン、本当は妹? 右は姉?メアリー

肖像画、メアリーの方が可愛くないですか

桜島噴火警戒、川内原発が近い、昔の人なら神の怒りというでしょう。
現地の方々のご心配、胸が痛いです。
日本中火山と原発だらけ、地震国で今活動が活発な時と聞いてます。

逃げる場所はありません。

        戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)や野火の感想は次回です。です。




WOWOWでブーリン家の姉妹を観ました。

余りに有名なアン、舞台や他の映画を観ているので映画館鑑賞は見逃がしました。2大女優競演なのに。


ちょうど、6月にロンドン周辺のガーデン巡りをしていて


昔の雰囲気のあるホテルでBBCのヘンリーとアンのドラマを観ました。


結構アンがすざまじく今までの悲劇のイメージが吹き飛びました。


ヘンリー役の俳優が若いころのスマートさから


晩年までイメージぴったりでした。同じ俳優かどうかわかりません。


赤川裕著「英国庭園を旅する」で憧れていたアン・ブリーンの恋と悲劇の城ヒーヴァ城の庭です。


赤川氏はブリーンとしています。


ヒーヴァ城もあまりに広大なので又御紹介しますね。


引用です

「アンを見染めたヘンリーはロンドンから馬車を飛ばしてこの城を訪根、正面の跳ね橋をひきあげさせた後は、陸上の孤島を化したこの城を愛の隠れ家としたのでした」



『ブーリン家の姉妹』劇場版予告編


この映画もBBCなのか。

はじめ観ていて混乱しました。

メアリーという姉妹を知らなかった私!

ヘンリーに「今夜だ」と言われれば、人妻なのに従順にヘンリーの寝室へ!

そして本当に愛してしまうのです。

父や伯父は自分たちの立身出世のためにメアリーを差し出したのです!

日本でも封建的な時代はそうでしたが、

今までのアンの映画・舞台では聞いてないような?

だから面白いですね。

アンの方はやる気満々、男子がうめるとはわからないのに、

この映画では

人望もあった王妃を引きずりおろして、姉妹もコケにして…

こういう人もいるでしょうね。

一度裏切った男は、何度でも裏切る!特に最高権力者ですからねえ。

女は子を産むのは命がけ、

この時代ですから生まれても無事に育つとは限りません。


16世紀のイギリスの宮廷を舞台に繰り広げられる愛憎劇。どちらも国王の寵愛を受けながら、まったく異なる道を歩むことになる美しい姉妹の劇的な人生を鮮やかに映し出す。本作ではナタリー・ポートマンスカーレット・ヨハンソンという当代きっての若手女優の夢のような共演が実現。その兄役を『ラスベガスをぶっつぶせ』のジム・スタージェスが好演する。後にイギリスに黄金時代をもたらしたエリザベス1世の母の壮絶な生涯に息をのむ。
シネマトゥデイ (外部リンク)

16世紀、イングランド国王ヘンリー8世エリック・バナ)には男子の世継ぎがなかった。いら立つヘンリーが愛人を求めていることを知った、野心家のブーリン卿(マーク・ライアンス)は聡明な長女のアン(ナタリー・ポートマン)を愛人候補に仕立てる。だが王が目に留めたのは、結婚したばかりの気だての良い次女メアリー(スカーレット・ヨハンソン)だった。


このサイトが面白い!↓引用です。
アンは自分が美人でないのをよく知っていた。

彼女の薬指の脇には、生まれつき指のように見える突起物があった。
今ではさして珍しくもない奇形の一種・多指病である。
それ自体も気になるのだが、もっと気にかかったのは幼い頃に無神経な乳母が口走った言葉だった。

「恐ろしい・・・これは悪魔の印です。気をつけねば、国を滅ぼすような人間になりますよ。」

その言葉を聞いて、アンは傷つくより面白いと思った。
自分に本当に悪魔から国を滅ぼすような力を与えられていたらよかったのに・・・・だが、幸か不幸か、アンはその容姿が災いして、誰にも構ってもらえない目立たない少女だった。
黒に近い濃い褐色の髪、黒い瞳。これで肌が白ければ、髪も瞳も引き立つだろうに、顔色は悪かった。
背も低くやせっぽちで、思春期になっても胸はさして膨らまなかった。
姉のメアリーは、明るい髪の色に明るい瞳だった。アンは家族の誰にも似ていなかった。

こんな娘を、外交官だった父のトマス・ブーリンは不憫に思った。
ヘンリー7世の王女メアリーがフランスに嫁ぐ時、その侍女の中に加えてもらえるよう取りはからった。
もっとも、まだ7歳の娘に、何ができるというわけではなかったが。フランスに渡ったメアリーとアンの姉妹は、主であるメアリー王女が帰国した後も、フランス宮廷に残った。
宮廷はちょうど先王ルイ12世が亡くなり、その娘のクロードが遠縁を入り婿に迎え、フランソワ一世として即位させたばかりだった。

若く華やいだ王と王妃の元で、姉妹はのびのびと育った。
お年頃になったメアリー・ブーリンには、さっそく恋人ができたが、アンにはお声はかからなかった。
そのかわり、大好きなリュートやダンスを習い、上達していった。
どうせ容姿で周囲に劣るなら、何か一芸に秀でて目立ってやるつもりだった。

1522年、ようやくブーリン姉妹は帰国した。
相変わらず不美人であったが、多弁で会話がうまく、何より自信たっぷりの強気な態度が、英国男たちを圧倒した。
アンはもう自分の欠点をうまく隠す技を身につけていた。
薬指の多指は、ドレスの袖を手の甲までかぶせることで、巧みに見えなくした。
ディズニーのアニメ白雪姫の中で、魔女の継母が着ていたあのドレスの形である。
尖った袖の先端が、中指のあたりに達していた。このドレスはけっこう流行ったので、アンの指は見事に隠されたのだった。また、アンは体の何カ所かに大きなホクロがあった。
もっとも目立ったのは喉にあるホクロだった。これを隠すために、首に宝石つきのリボンを巻いた。
特にお気に入りなのが、自分の頭文字「B」をデザインした宝石をあしらったチョーカーだった。

やがてノーサンバーランド伯爵の息子、ヘンリー・パーシーと恋仲になって結婚を考えるようになった。
このまま何事もなければ、ヘンリー・パーシーを尻に敷いて、まずは平穏な一生を過ごしたかも知れないが、運命は、アンの乳母が予感したとおり動き始めていた。

ヘンリー8世は、このよくしゃべる女の軽快な話し声に惹かれた。
よく話し、よく笑い、合間にリュートを巧みに演奏して見せた。
ヘンリーはでかい図体を揺すりながら、何気なくアンの横に並んだ。
「おまえはリュートがうまいな。フランス仕込みか。」
アンは肩をすくめ、
「どこにいてもリュートは好きだったと思います。」
「ところで、おまえの姉のメアリー・・ちっとも似ておらんな。」
「姉ではなく、私が似ていないんでしょう。私は家族の誰にも似て いませんもの。」
何がおかしいのかヘンリーは大笑いして
「そうか!家族の誰にも似ていないのか!朕(わたし)と一緒だな!我々はウマが合いそうじゃないか。」


メアリー・ブーリン(Mary Boleyn, 1499年/1500年頃 - 1543年7月19日)は、イングランドヘンリー8世の時代に影響力のあったブーリン家の一員である。メアリーは初代ウィルトシャー伯爵トマス・ブーリンとその妻エリザベス・ハワードの娘であり、アン・ブーリン王妃の姉妹であった。どちらが姉であったかについては歴史家の間で諸説ある。姉妹のアンとともにフランス宮廷に渡っていたが、先に帰国して、アンとは異なるその美貌をヘンリー8世に見初められて愛人となる。アンが魅力に乏しかったことは、当時の一次史料に残っているが[1]、美貌であったメアリーは縁談があり、1520年にイングランド貴族ウィリアム・キャリーの妻となったため、最初からヘンリー8世の再婚相手とは見なされず、愛人として遇された。
メアリーはヘンリー8世の愛人の一人であり、ライバルのフランスフランソワ1世の愛人でもあったと主張する者もいるが、確たる根拠はない[2]。姉あるいは妹のアン・ブーリンもまた、フランスでは愛人はいなかったという伝承もあるが、イングランドに帰国するや、トマス・ワイアットやヘンリー・パーシーといった恋人ができ、不倫反逆裁判において表沙汰となった。
メアリーは2度結婚した。最初の結婚相手は前述のウィリアム・キャリーで、2人の子供が生まれている。2度目の結婚はハンフリー・スタッフォードという平民で、恋愛結婚だった。

子孫[編集]



↑これは面白いですね!

メアリーは最後は恋愛結婚してこんな凄い子孫残してます!

人生わからない。

帯津医師は気功は40年すると顔も良くなる、

だけどいつからやってもいい。

死んでも続いて行くような意味のことを雑誌でおしゃってます。

私も先週体調崩し気功やリハビリ、初級バレエ全部休みました。

ぼちぼちやります。無理は出来ない身体です。

6月に偶然チャーチルのチャートウェルに行くことが出来ました。

ハンプトンコートはイギリス4,5回目でやっといけました。

10年前のコッツウオルズの名園巡りではチャーチルのブレナム宮殿など見学しました。

Bの文字をデザインした宝石のチョーカー、映画でも目立ってましたね。

家と自分の野心背負っていたのでしょう。


最近観たのは

レディ・ベス

ここでは母のアンが亡霊になって彼女を見守るように出てきて
優しい母という設定。

映画では「1000日のアン」

舞台
作:ダーチャ・マライーニのメアリー・ステュアート観たのも懐かしいです。

二人の女王は実際には会っていないのに。
これも皮肉な運命ですねえ。


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原題「もう一人のボレイン・ガール(The Other Boleyn Girl)」ですか!

引用です。
メアリーは、ノフォーク州のブリックリング・ホールで生まれ、ケント州のヒーバー城のボレイン家の屋敷で成長しました。彼の父は裕福な外交官サー・トーマス・ボレインで、母はレディ・エリザベス・ハワードでした。正確な生年月日は分かっていませんが、1499年という説が有力です。ボレイン家の子供たち(3人)のうちの一番上であったという記録が残っています。アンは、幼少から海外での教育を受けましたが、メアリーは子供時代のほとんどを英国内で過ごしました。

1514年に、彼女が12歳と15歳の間の時に、海外に送り出されました。彼女の父が、フランスのルイ12世と結婚するためにパリに行くことになっていたヘンリー8世の妹メアリー・チューダー王女の女官の仕事を確保してきたのです。数週間後に、女王の英国から連れてきた女官は、英国に戻るように命令されましたが、メアリー・ボレインだけは残ることを許されました。多分父親の英国大使としてのコネが働いたのでしょう。メアリー・チューダーは、夫ルイ12世が1515年1月1日に死去したのに伴って英国に戻りましたが、メアリー・ボレインは、新しい国王と女王、フランシス1世とクロードの宮廷に残りました。

メアリーは、いくつかの情事にかかわっていたものと考えられている。その中には国王フランシス1世も入っています。歴史家の中には、彼女の性的脱線の報告はかなり誇張されているという人もいますが・・・。彼女は1519年に英国に戻ります。そして英国女王キャサリン・オブ・アラゴン(ヘンリー8世の最初の妃)の女官の地位を与えられます。

英国に戻って間もなく、メアリーは、1519年2月4日に金持ちでいいコネを持っている宮廷の取り巻きのサー・ウィリアム・ケアリィと結婚します。この二人の結婚式のゲストにヘンリー8世がいたのです。間もなくヘンリー8世とメアリーは、関係を持ち始めます。この情事は公になることはありませんでした。メアリーは、フランスやその他の国で見られるような、国王の愛人が得る名声、富、権力に関心がなかったのです。この王との情事は、1527年3月にメアリーの子供、ヘンリー・ケアリィの誕生の前に終わったと信じられています。情事の最中または関係が終わってしばらくして、メアリーの子供の1人または2人の父親は、ヘンリー8世であると噂されました。ある証人は、メアリーの息子、ヘンリー・ケアリィはヘンリー8世によく似た容貌をしていると言っています。アイルワースの教区牧師ジョン・ヘイルは、メアリーの子供が生まれて10年ほど後に、彼は「若いマスター・ケアリィ」にあったが、彼は王の私生児だと述べています。その他には、ヘンリーが国王ヘンリー8世の実の息子であるという議論を支持するその時代の証拠はありません。

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