riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline">ネット世代広がる声 高校紛争</span>

<デモと若者>(上) 高校紛争

文部省の決定に反対して愛知県庁前をデモ行進する旭丘高の生徒たち=1969年11月、名古屋市中区で
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◆身近な問題は提起少なく

 「高校生に、政治活動を!」。詰め襟姿の生徒たち千人余りが、名古屋市東区の旭丘高を出発した。横断幕を手に、シュプレヒコールを繰り返す。市中心部の久屋大通公園までの五・五キロをデモ行進した。一九六九(昭和四十四)年十一月のことだ。
 「高校生への規制だったから、僕らが声を上げるのは当然だった」
 当時、同校三年でデモに参加した飯沼信彦(64)=岐阜県大野町=は振り返る。文部省(現・文部科学省)がその前月、高校生の政治活動を禁止したことへの抗議だった。
 このころ、学校の封鎖や授業のボイコットなどの高校紛争は全国に及んでいた。教育ジャーナリストの小林哲夫(55)によると、六九年秋から翌年春までに愛知のほか、岐阜、長野など三十六都道府県の百七十六校で発生した。
 七〇年安保闘争と絡めて論じられることも多いが、学校の制服廃止や学費値上げ阻止といった足元の問題を訴える生徒も少なくなかった。実際、旭丘高では生徒からの訴えを受けて事実上、制服を自由化している。
 静岡県掛川西高に通っていた松下知(さとる)(65)もその一人。ベトナム戦争や能力別クラス編成に反対し、今は東京都内で夜間中学の設置運動を続ける松下は「差別を生む資本主義や受験戦争に矛盾を感じた」と証言する。
 七〇年代前半以降、若者の政治活動は学校や街から消えていく。日米安全保障条約が七〇年に自動延長され、挫折感から一部の先鋭化した組織は対立や抗争を繰り返した。暴力をエスカレートさせる一方で運動から身近な訴えは消え、社会への広がりも失った。
 商社を退職後、今は地元自治会役員として古里の街づくりに取り組む飯沼。二〇一五年夏から秋にかけ、久しぶりに若者主体のデモの列に加わった。
 安全保障関連法反対を訴える「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動、シールズ)」などの国会前や名古屋市内の集会では、ドラムの音とラップ調の声が響いていた。「ボブ・ディラン吉田拓郎。ぼくらのころはフォークソングだった。時代が変わっても、若者の運動には楽しさがある」。懐かしさと親近感が湧いた。
 一方、教育問題を追う小林の見方は異なる。
 「かつては学校単位の運動が主流で、身近な訴えも多かった。しかし今はインターネットで背景の異なる人が集まるため、身近な問題への提起は少ない」
国会前で6日夜、安全保障関連法反対を訴えるティーンズソウルのメンバーら
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 文科省は昨年十月、高校生の政治活動を四十六年ぶりに解禁した。今夏から、選挙権年齢が「十八歳以上」に引き下げられることへの対応だ。シールズより若い高校生世代が中心の「T-nsSOWL(ティーンズソウル)」も、路上で声を上げ始めた。
 四十年以上の時を経て、再び訪れた「政治の季節」。シールズなどのデモ参加者は、七〇年安保のころと違い、いわゆるエリート校や一流大中心ではない。半世紀近くを隔てた若者デモ双方の現場に立った飯沼は、そこに可能性を感じている。
 「運動の広がりに必要なのは参加者の多様性。ネットによるつながりを通じ、今の若者たちの間にその多様性が育まれれば」
(文中敬称略)
       ◇   ◇ 
 憲法原発などで、自らの考えを直接、社会に訴える若者が増えている。国会前などでシュプレヒコールを繰り返すその姿は、かつて高校紛争や学生デモに身を投じた世代の目に、どう映っているのか。「十八歳選挙権」の導入を前に、「デモと若者」という政治風景の変遷を探った。
(この連載は、社会部・藤沢有哉、立石智保が担当します)

中日新聞5月10日 朝刊