riboni5235’s diary

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<span itemprop="headline">杉山千佐子さん死去101歳、民間戦傷者の救済を訴え</span>

杉山千佐子さん死去 101歳、民間戦傷者の救済を訴え

杉山千佐子さん
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 太平洋戦争の空襲で死傷した民間人への国の援護を求めて長年、運動を続けた全国戦災傷害者連絡会会長で全国空襲被害者連絡協議会顧問の杉山千佐子(すぎやま・ちさこ)さんが十八日、老衰のため、名古屋市千種区の老人ホームで死去した。百一歳。岐阜市出身。葬儀は近親者のみで営み、後日、お別れの会を開く。
 研究補助員として名古屋大医学部に勤めていた一九四五(昭和二十)年三月、米軍の空襲で左目失明などの大けがをした。戦後、国は戦争で死傷した元軍人や軍属、その遺族らを援護したが、同じ境遇の民間人を除外。これを国民差別だとして、七二年に全国戦災傷害者連絡会を組織し、政府や国会に民間人救済の戦時災害援護法の制定を求める運動を始めた。法案は七三~八九年に計十四回、国会に提出されたが、成立しなかった。
 二〇一〇年、東京大空襲訴訟原告団を中心に全国空襲被害者連絡協議会が結成され、顧問に就任。空襲被害者の象徴的存在として、百歳を超えても車いすで運動の先頭に立った。安全保障関連法を批判する発言も続けた。
 名古屋弁護士会(現愛知県弁護士会)の人権賞と、長崎県被爆者手帳友の会の「友の会平和賞」を受賞。中日新聞より

18日に名古屋大空襲で左目を失った杉山千佐子さんが101歳で亡くなられました。

1945年3月、千種区防空壕にいたのに爆風で顔がえぐれ、生き埋めになったのです。

戦後30年近く過ぎたころ、旧軍人・軍属とその遺族らと同様に民間戦傷社にも補償を施す援護法制を求める運動を始めた方です。

生涯をかけたほう制定は実現しなかった

「戦前、戦後と私はだまされてばっかり」

晩年は残った右目も視力を失った。

それでもあきらめなかった。

同じく多くの民間人が犠牲になった広島と長崎に毎夏足を運んだ。

「他人の痛みは、自分が沢山の痛みを感じて知るもの」

人とあらそわない平和な国にしてほしい。
これからも同じことを繰り返し訴えていく」

昨年7月の安保法案を審議する衆院議員会館での集会

杉山さんは「法案を通すならまず『一番弱い国民を守る』と一条入れてください」と訴えた。

成立前日の昨年9月18日には

「怖いですね。国民そっちのけで自分たちの考えでつき進んでいく」と憤った。願いとは逆の方向で日本が進んでいるように思えてならなかった」と。

101歳まで闘った杉山さん、立派です。



アベは庶民の声等聞こうともしない。