riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

東山動物園のライオンの病気

平成24年6月18日に東山動物園で35年ぶりに誕生した双子のライオンの愛称を昨日(10月14日)の命名式にて発表しました。
愛称はオスが「ソラ」、メスが「ステラ」です。
愛称募集期間中には本当にたくさんの投票をいただきました。ありがとうございました。
また、昨日の命名式にもたくさんのお客様に足をお運びいただきありがとうございました。
これからの2頭の成長をあたたかく見守ってください。
 
 
 
画像(320x213)・拡大画像(640x427)
平成27年5月12日朝、ライオンのステラが亡くなりました。これまで、たくさんの来園者の方々に可愛がっていただき、御礼を申し上げます。
そして、たくさんのお悔やみの花をいただきありがとうございます。

2013年の春からステラの頸部に腫瘤が見つかりました。超音波やレントゲン等の検査を行いましたが、順調に成長していたのでその経過を観察してきました。

大型の猛獣等の検査や処置には、ペットの犬や猫と違い麻酔等が必要です。事前に正確な体重を測定できることはまれで、まず体重にあった適正量を投与すること自体が難しいです。
未成熟や病気の動物への麻酔はそのものに大きなリスクがあり、しかも何度も行うことはできません。このため、麻酔下で精密な検査を行うにも我々の覚悟と準備が必要となります。
最近とくに、ステラの腫瘤が大きくなってきました。たくさんの方々からもご心配をいただいており、腫瘤による悪影響や破裂するなどの事態が想定されたので、ステラの処置を決断しました。

首にできた腫瘤は、良性の甲状腺腫瘍という非常に珍しい症例で、摘出できたとしても、生涯、適正量のホルモン剤投与を続ける必要があります。
摘出することはできましたが、腫瘍が太い静脈に付着し手術中の出血が多かったことや、麻酔の影響、内分泌(ホルモンなどを分泌する)器官を摘出した場合には体調が急変することもあるといわれており、
これらの要因が影響して翌朝に亡くなったと思われます。

ステラの名前は一般公募で決まりましたが、その候補を私が提案させていただいたこともあり、特別な思いがあってとても残念です。
しかし、ステラが我々にこの症例とめぐり合わせてくれた意義はとても大きく、今後の動物園での飼育や診療に役立てなければと思っています。


動物園指導衛生係  茶谷 公一
 
 
<いのちの系譜 東山動植物園80年>(4) 手紙 
2017/3/21 紙面から
雄ライオン「ソラ」の前で、子どものころからの思い出を話す稲田正俊さん=名古屋市千種区東山動植物園
 一九四九(昭和二十四)年三月十七日。今から六十八年前のこの日、東山動植物園に一通の手紙が届いた。
 「ぼくはライオンがみたい。どうぶつをかうときにいっしょにつかってください」
 差出人は六歳の幼稚園児。ためたお小遣い百円の定額小為替が同封されていた。手紙を読んだ初代動物園長の北王英一さん(故人)はすぐに、動物の絵はがきにメッセージを書いて返信した。
 「あなた以上に私がもう一生懸命です。しばらく御待ち下さい」
 その絵はがきを、名古屋市昭和区の稲田正俊さん(74)は今も大切に持っている。幼いころの思い出が詰まった「宝物」だ。
 東山は戦時中、軍から「空襲被害で猛獣が逃げ出すと危険だ」と命令され、飼育していたライオン三頭を銃で撃つなどして殺した。動物を守るはずの園がやむなく命を奪った暗い歴史。戦後もしばらくライオンは不在で、幼稚園の遠足で訪れた稲田さんは「みたい」という気持ちを手紙にしたためた。
 園長の返信から四カ月後。東山に五年ぶりとなるライオン一頭が米国からやって来た。稲田さんは母親と見に行き、願いをかなえた。「やっぱりライオンは動物園の顔。子どもながらに、強くてたくましい百獣の王の姿にあこがれた」
 その後も飼育を続けてきた東山に二〇一二年六月、ライオンの子ども二頭が三十五年ぶりに生まれた。雄の「ソラ」と雌の「ステラ」。公開初日は稲田さんも大勢の来園者に交じって誕生を祝ったが、二頭は一歳を過ぎると首の甲状腺の腫瘍に悩まされた。
 原因は分からず、園の獣医師の田中喜和子さん(39)が文献を調べても症例報告はない。成長するに連れて腫瘍は膨らみ、ソフトボールよりも大きくなったステラは三歳になる前に手術を受けた。摘出そのものは成功したが翌日に急死し、残されたソラは投薬治療を受けることになった。
 飼育員の小林隆志さん(44)が馬肉や鶏肉に錠剤を埋め込み、餌と一緒に食べさせている。「できることを続けていくしかない」。決して治ったわけではないが、薬が効いて腫瘍は半分以下の大きさになった。病気で遅れていた体の成長も進み、たてがみがようやく生えそろってきた。
 ソラが過ごすライオン舎の運動場は柵がなく、来園者が堀を挟んで自然に近い姿を眺めることができる。八十年前の開園時に造られた歴史ある施設だ。
 子どものころからこの場所を見つめてきた稲田さんは、今も時折、孫を連れて訪れる。「生き物に接することで人は多くのことを学ぶ。自分も東山に育てられた一人だから」
 人にも動物にも同じように命がある。視線の先で、ソラはきょうも病と闘っている。
 
イメージ 1
 
 
上の記事は中日新聞などからの引用です。最初は過去のニュースから
その頃は動物園にさほど関心がなくこぶの出来たステラの写真も知らなかった。
甲状腺と言えば私は機能亢進症、二回目の発病には驚きました。
 
足が鉛のように重くて一度しゃがむと立ち上がれない、最初の発病は精神的な物が多かった、体重はガタ減り。24時間マラソンしているような病気。
 
 
入院中は一時のども凄く腫れてきて食道が圧迫されていました。
若い時はなかなかこの病気が発見できなかった、ちょっと疲れやすいとは思っていて帰宅部でした、一度寝てから又宿題するとか。
 
今は血液検査ですぐわかります。昔は変な人とか言われて衰弱死したのかも。
 
もう甲状腺の薬を止めることは考えられません。
 
猫にも甲状腺の病気があると言うので同じ猫科のライオンにも出たのか。
 
戦時中ゾウは馬の飼料を貰って生き延びました。
軍人も忍び難かったのでしょう。

 

シーボルトに貰った顕微鏡、東山植物園80周年♪

  • twitterでつぶやく

  • 0

 

イメージ 1
 
動物園奥にある植物園の方が先に出来ました。
桜の回廊やお花畑に行くには急な坂道登らなくてはなりません、
エスカレーターがほしくなります。平日は車があるそうです。
イメージ 2
 
この日も結婚式
音楽に合わせて噴水も祝福してます。
ここのレストランも2回ぐらい入りました。
 
イメージ 3
 
 
 
イギリスのキューガーデンの温室を見習いました。
いつもは温室の前に蓮池があり景観がよいのですが
修復中で池もなくなっています。寂しい。重要文化財
 
イメージ 12
 
モノレールから見た東山タワー、一度上りました。
キューガーデン、一度は地下鉄で、2回目車で行こうとしたらどこからは入れるのかわからず断念した、アホな悔しい思い出があります。
キューも広いので歩くのが大変、全部は観られませんでした。
 
イメージ 4
 
 
奥の小さい温室のみ見学できます。このような重くて立派なコンテナは家では無理。
 
イメージ 5
 
 
植物園では約7,000種もの植物を展示しているほか、国指定重要文化財の「温室」や 世界遺産にもなった岐阜県白川郷から移築した「合掌造りの家」などがあります。丘陵 地の地形や自然林を生かした展示になっており、園内を巡りながら植物に親しむことの  ...
 
イメージ 13
 
2012年、スイレンの香りを楽しむ。↑
↓も2012年の温室
 
イメージ 14
 
 
イメージ 6
 
 
 
イメージ 7
 
 
イメージ 8
 
 
ブーゲンビリアはいつも綺麗
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
 
 
シーボルトに師事し、日本の植物を集めてシーボルトに協力した伊藤圭介が貰った顕微鏡。解体新書の原書も展示。
イメージ 11
 
 
名古屋市博物館でも連携した展示があります。
4月22日~6月11日まで。
伊藤 圭介は、幕末から明治期に活躍した理学博士。男爵。「雄しべ」「雌しべ」「花粉」という言葉を作った事でも知られる。尾張国名古屋出身。名は舜民、清民。 字は戴堯、圭介。号は錦窠。
 
イメージ 15
 
 
イメージ 16
 
 
イメージ 17
 
新しいゴリラ舎が出来るまでまだ2年はかかりそうです。
門柱も開園当時からの貴重な小松石です。園長さんのお話から。
動物園、植物園が楽しめる平和な時代を
 
追記
植物園入り口の建物にはいつもボタニカルアート展示されてますが
ガラスケースの上に蛍光灯があり上手く撮影出来ません。

 

個人美術館を愉しむ

 

美術館で偶然見つけたこの本、下の本もあることを知り興味深々です。
 
美術館にカフェがあると嬉しいですね。
 
個人美術館の愉しみ
コジンビジュツカンノタノシミ
2011年10月18日発売
定価(本体1,300円+税)
ISBN 978-4-334-03649-2
光文社新書
判型:新書判ソフト
関連おすすめ本 −同じ著者の本−

個人美術館の愉しみ赤瀬川原平/著

個人美術館とは、一人の作家だけの美術館と、一人のコレクターによる美術館と、二通りの意味を持つ。
秋野不矩植田正治小磯良平ベルナール・ビュフェ熊谷守一香月泰男河鍋暁斎イサム・ノグチ安野光雅猪熊弦一郎杉本健吉etc.
個人美術館の愉しみは、近現代を彩る芸術家たちの足跡を眺められること。もう一つの愉しみは、その作品の山を築くことになったコレクターの、熱情を見ること。大金を投げ出して手に入れた人の熱情が並ぶと、その熱を通して見えてくるものがある。
日本にある、魅力ある個人美術館を厳選。赤瀬川さんが紡ぐ46の物語。

目次

まえがき
第1話  足立美術館   田んぼの町に隠れた日本庭園
第2話  大田区立龍子記念館   筆力旺盛に舌を巻く
第3話  かみや美術館   岡の上の静寂美術館
第4話  何必館京都現代美術館   品格の内に宿した狂熱
第5話  浜松市秋野不矩美術館   丘の上の岩絵の具の砦
第6話  植田正治写真美術館   田んぼの中の写真館
第7話  小平市平櫛田中彫刻美術館   どこまでも探求する彫刻家
第8話  細見美術館   古典の魅力を今に繋げる
第9話  徳川美術館   “新品同様”の揃う宝庫
第10話  真鶴町中川一政美術館   風景の現場がアトリエだった
第11話  大津市三橋節子美術館   花折峠の美術館
第12話  玉堂美術館   自然のリズムを掴む
第13話  神戸市立小磯記念美術館   折り目正しい自然描写
第14話  ベルナール・ビュフェ美術館   苛立つ線の画家
第15話  熊谷守一記念館   まったく慌てたところのない絵
第16話  台東区立朝倉彫塑館   才能フル回転の彫塑館
第17話  香月泰男美術館   「私の地球」のある美術館
第18話  出光美術館(門司)   キャンバスに描かれた禅画
第19話  河鍋暁斎記念美術館   掛け値なし、絵筆の天才
第20話  稲沢市荻須記念美術館   パリを描き、パリに死す
第21話  弥生美術館・竹久夢二美術館   額のない絵の美術館
第22話  イサム・ノグチ庭園美術館   屋島と五剣山を借景とする
第23話  鎌倉市鏑木清方記念美術館   賑やかな通りの閑静な美術館
第24話  大塚国際美術館   泰西名画の原寸図書館
第25話  メナード美術館   粒よりの絵が味わえる
第26話  DIC川村記念美術館   明るく賑わうホリデーの場所
第27話  河村美術館   青木繁絶筆の地
第28話  宮本三郎美術館   常に先走る描写力
第29話  長崎市野口彌太郎記念美術館   長崎の景色を愛した画家
第30話  根津美術館   緻密に練られた展示環境
第31話  笠間日動美術館   画商ならではの芸術保護区
第32話  喜多美術館   田園の孤独な目の軌跡
第33話  アサヒビール大山崎山荘美術館   大山崎での熱意のかたまり
第34話  山口蓬春記念館   画家と建築家による幸福な建物
第35話  ウッドワン美術館   「目玉」を揃えた山の美術館
第36話  津和野町立安野光雅美術館   昔の教室のある美術館
第37話  上原近代美術館   くつろぎの丘のコレクション
第38話  ひろしま美術館   ピカソまでの粒選り名画
第39話  丸亀市猪熊弦一郎現代美術館   ニューヨークのゲンちゃん
第40話  ポーラ美術館   緑の中のガラス容器
第41話  中野美術館   薄味と渋味が光る小品
第42話  杉本美術館   観察の先の描写の味わい
第43話  大川美術館   絵は心のマッサージ
第44話  太田記念美術館   原宿のエアポケット
第45話  大原美術館   進取の気に富む美術館
番外編  夢見る谷内六郎美術館
あとがき

著者紹介

赤瀬川原平(あかせがわげんぺい)
一九三七年神奈川県生まれ。画家、作家。武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)中退。六〇年代、前衛芸術家として活動。七〇年代、独自の批評を盛り込んだイラストレーターとして活躍。八一年、「尾辻克彦」名義の『父が消えた』で芥川賞を受賞。八六年、藤森照信南伸坊らと「路上観察学会」を結成。著書に、『赤瀬川原平の名画読本』(光文社知恵の森文庫)、『超芸術トマソン』『老人力』(以上、ちくま文庫)、『新解さんの謎』(文春文庫)、『千利休 無言の前衛』(岩波新書)など多数。
新書
 
 
赤瀬川さんのファンです。赤瀬川さんは名古屋に在住されていたことがあります。スターマークがあるところは見学した美術館です。
 
玉堂さんの子孫の方と知り合いこの本と画集を貸していました。。
特に京都の何必館は友人が勤めていたこともあり
出来上がる様には感動しました。
 
ベルナール・ビュフェ美術館も改装中で入れませんでした。
パリのバルザック、モロー、ユゴーの個人美術館は彼らが住んでいたのでひとしお思い入れがあります。
ピカソ美術館も行くといつも修復中でした。

 

続東山動物園80周年記念、シャーバーニ、カバ

www.youtube.com

 
イメージ 1
 
50年周年記念、一度乗ってみたいwww回転木馬も。
 
イメージ 2
 
 
コッツウォルズのキフツゲートコートガーデンの噴水を思い出します。
 
イメージ 3
 
シャバーニが出入り口から覗いています。見えますか。
「もっと早く来なければいかん」と男性が御立派なカメラで、
私のカメラをじろっと見てわざわざ自分の画像見せました
 
イメージ 4
 
ネネに甘えるキヨマサ?
シャバーニの兄が上野動物園にいるそうです。

kaisoubiyori.com

 

優しくて思慮深そうな顔です。傲慢な人間が恥ずかしい。
 
 
イメージ 5
 
 
階段でゴロゴロ、まだ子供ですね。
 
イメージ 6
 
 
 
イメージ 7
 
抱っこしてもらえました。
 
イメージ 8
 
 
左側奥に飼育員がいます。
 
イメージ 9
 
ミモザや桜草は花粉症になるとか。
 
イメージ 10
 
 
サイも間近で観られるようになりました。
リンゴの後はこれ
 
イメージ 11
 
いつも寝ているカバが…
 
イメージ 12
 
 
イメージ 13
 
バンビのモデルの美しい鹿
 
イメージ 14
 
植物園では伊藤圭介がシーボルトから貰った顕微鏡の展示があります。

 

 

原発事故、国と東電に過失、原道子裁判長

 

原発事故、国と東電に過失 前橋地裁、避難者集団訴訟判決

福島第一原発事故避難者の集団訴訟で国と東電の過失が認められ、垂れ幕を掲げる弁護士ら=17日午後、前橋地裁前で(川上智世撮影)
写真
 
写真
 東京電力福島第一原発事故福島県から群馬県などに避難した住民ら百三十七人が国と東電に計約十五億円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、前橋地裁は十七日、「東電は巨大津波を予見しており、事故は防げた」と判断、東電と安全規制を怠った国の賠償責任を認め計三千八百五十五万円の支払いを命じた。
 原告側弁護団は「原発津波対策を巡る訴訟で国と東電の過失が認められたのは初めて。国の賠償責任を認めたことは極めて大きな意味がある」と評価した。全国で約三十件ある集団訴訟の最初の判決で、影響を与えそうだ。
 原道子裁判長は政府が二〇〇二年、「福島沖を含む日本海溝沿いでマグニチュード8級の津波地震が三十年以内に20%程度の確率で発生する」とした長期評価を発表した数カ月後には、国と東電は巨大津波の予見は可能で、東電は長期評価に基づき津波の高さを試算した〇八年には実際に予見していたと指摘。さらに、配電盤を高台に設置するなどの措置は容易で、こうした措置を取っていれば事故は発生しなかったとし、安全より経済的合理性を優先させたことなど「特に非難に値する事実がある」と述べた。
 国については〇七年八月に東電の自発的な津波対策が難しい状況を認識しており、規制権限に基づき対策を取らせるべきだったのに怠ったとして「著しく合理性を欠き、違法だ」とした。
 原告は避難指示区域に住んでいた七十六人と区域外からの自主避難者ら六十一人。賠償が認められたのは区域内が十九人で一人当たり七十五万~三百五十万円、区域外が四十三人で七万~七十三万円。
 判決は、損害が国の指針を超える場合は裁判などで賠償を求められるとした上で、放射性物質の不安にさらされない利益を含む「平穏生活権」をどの程度侵しているか原告を一人ずつ検討し、慰謝料を算定した。この慰謝料を算定する上で東電の事実上の過失を認定。国については国家賠償法上の過失を認めた。
 <予見可能性> 危険な事態や被害が発生する恐れがあることを事前に認識できたかどうかということ。危険を予見できたのに、回避する対策を怠って重大な結果を招いた場合、過失を問われることがある。東京電力福島第一原発事故を巡っては、事故を引き起こすほどの巨大津波を予測できなかったとして東京地検が2度、刑事告訴された東電の元会長ら旧経営陣3人を不起訴としたが、昨年2月、検察官役の指定弁護士が検察審査会の議決に基づき、業務上過失致死傷罪で強制起訴した。
 
 
 
平穏に暮らす権利侵害
 
国の責任逃れ許さず
 
 
賠償は非常に低額、原発避難者一部は賠償されず
 
判決評価も晴れぬ心
 
避難者に「寄り添う」原道子裁判長を原告評価
 
巨額をわけあった輩がいる。
 
 「何年後かに分かればいい」という話ではなくて、
まずはもう、汚染が外に出ないように、もう、何よりも早くどんどん工事、
というか、わたし自身は「閉じ込めるしかない」と思っているのですが、
1986年のチェルノブイリ原子力発電所の事故の時にやったような、「石棺」というものをまずは作る。
チェルノブイリ原子力発電所の場合は、地上だけで済んだのですけれども、
福島の場合には、原子炉建屋が地下でもう、ボロボロにひび割れてしまっていて、
地下水が汚染水と一体化してしまっているという状況ですので、
地下にも石棺を作らなければ、

水野:
地下にも石棺って、出来るんですか?

小出:
はい、もう私は、水野さんに聞いていただいて、前の「たねまきジャーナル」の時代にですね、
2011年5月の段階から、それを私は、みなさんにお伝えしてきました。
「地下に遮水壁をめぐらして、地下水と接触しないようにしなければいけない」
「すぐにでもやるべきだ」と、私はあの時に発言をしたのですが、
もうすでに4年も経ってしまっていて、「あまりにも遅い」と。
国や東京電力のやっていることが、思います。
<2.廃炉への道>「今更『ミュー粒子でどこにあるか?』なんて、そんな議論をしている暇すら本当は無いのです」 小出裕章氏3/13報道するラジオ(文字起こし)参考あり

園長と歩く!東山動植物園開園80周年♪

  • twitterでつぶやく

  • 0

 

イメージ 1
 
昨日動物園に行きたかったのですが風が強くて止めました。
花粉症が出ると困るので。
夕方のローカルニュースで土曜日から80周年記念の行事があると聞き、よかったなと。
行ったらちょうど園長さんが話し始めていました。
ありがとうございました
参加者たちも熱心にメモ取る方もいました。
 
イメージ 2
 
モノレールも初めて?乗ってみました。
 
最初の話は開園当初からの入り口の石について
これは高価な石、小松石です、はじめは緑色だった石が…
 
イメージ 3
 
小松石とは火成岩の中の安山岩です。箱根火山の活動により今から40~15万年前に流出した溶岩よりできた半深成岩です。分かり易くいえば溶岩が比較的早く冷却し生成した岩石です。わが国の安山岩中、石質は堅硬、耐久性、耐火力には花崗岩よりも強い点が特色です。
また、小松石は山から切り出した状態では表面が酸化し赤褐色を呈して、自然石で形のよいものは庭石、記念碑、飛石、に使用され関東地方や東海地方には、その遺蹟を数多くみることが出来ます。この岩石を角材にし研磨すると、小松石独特の灰色、淡灰緑色の緻密な石面が現れ柔らかな光沢を発し高級な墓石に使用されます。
 
イメージ 4
 
 
名古屋の東山動植物園が開園80周年を迎え、一部の施設が18日からリニューアルされるなど記念事業が始まりました。
 
イメージ 5
 
↑借物画像、今は修復中で見えません。
 
なぜこのような恐竜像を作ったのか?
 
それはまだ当時は恐竜がどこかに生きていると思う人もいたからだそうです。ネス湖ネッシー等の話もありますね。
 
フラミンゴもバックヤードに。
 
昔は恐竜像に登れたそうですが今は危険でもあるので。
河村市長は登ったらしい。
 
鳥インフルエンザで工事が遅れました。
胡蝶池、古代池は水が抜かれています。
鳥インフルエンザで心配した,黒鳥も2羽?3羽?助かったそうです。

  東山動植物園は1937年に開園しました。同日は80周年の記念事業の開会式典が開かれ、名古屋市の河村たかし市長ら約150人が参加しました。古代池にある鉄筋コンクリート造の恐竜像は昭和13年に開園1周年を記念して造られました。つくられた当時は、周りの樹木も低く東山動物園のシンボルとして堂々と君臨していましたが、現在は樹木に隠れあまり目立たなくなりました。
恐竜の種類は、イグアノドン、ブロントサウルス(現在はアパトサウルスといわれています)トリケラトプスの3種があります。現在はコンクリートの劣化により危険なため柵が設置してありますので登ることは出来ませんが、昔は柵もなく登ることができました。
 
イメージ 6
 
ブラザーが寄付したユキヒョウの檻
 
ユキヒョウが一番上のステップに登ると↑ぼきん
 
イメージ 7
 
寝ていて、これしか写せなかった、これじゃあ何だかわかりませんね。随分高い所にあります。雪評は高い床尾rに入る猛獣ですから。
 
イメージ 15
 
 
借物画像↑繁殖のため札幌円山動物園から来たリアン
 
野生のユキヒョウの写真はやっと40年ぐらい前に撮影出来たので幻の獣と言われていたそうです。
 
イメージ 16イメージ 17
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
垂直のような崖を全力で走り獲物を落としてしとめるとか。
 
 
イメージ 8
 
学者に誉められたかつて飼育していたアフリカゾウ骨格標本
 
イメージ 9
 
 
 
イメージ 10
 
このライオン、園長さんを観ているようでした。
直前のあくびの写真は撮りそこないました。
 
昔堀に落ちた老齢のライオンは助け上げたのに2週間後死亡、ショックか。
 
イメージ 11
 
虎の中では一番小さいスマトラトラ、次はトラと聞くとドキドキワクワク、ほかの動物はそこまで行かないのに、トラ大好き
 
強化ガラスにしてくれたので檻が見えない位置から。
 
イメージ 12
 
絶滅危惧種3000頭しかいない。
 
立派で綺麗、やはりこの怖い目賀たまらない。
 
イメージ 13
 
 
イメージ 14
 
 
エルドとマカニーが眠る動物慰霊碑
 
東山はドイツの
大正15年1月28日に東山一帯267万平方メートルが、都市計画公園として内閣の認可を得て決定告示され、これによって法的な環境は整備された。昭和6年には当時の大岩市長が北王動物園長に「手狭になった動物園を山崎川周辺へ移転させたい」といっているが、この話は結局沙汰やみになったようだ。昭和7年春、第1回動物まつりを開催するための協賛会の席上で、東山一帯へ動物園を移転させる話が持ちあがっている。
昭和7年10月24日、東邦瓦斯株式会社の岡本社長より植物園建設費として25万円を名古屋市に寄付したいとの申出があった。この時点で市長の頭に東山動植物園の構想が浮かんだようだ。覚王山東一帯の森林地帯、当時の東区田代町と天白村八事付近はもともと御料林だったが、水野鐘三、清水貞雄、中村慶吾の各氏が払い下げを受けていた。市長は愛知県の公園係加納主任、市の石川技師らとともに現地を視察、地主との交渉を開始した。ただし予算はない。無料で寄付してくれという虫のいいお願いだったにもかかわらず、水野鐘三氏を始めとする地主たちは東山一帯の土地を市に寄付した。
当時の東山地区は旧愛知郡道が右左にまがりくねりながら通じているのみで、現在の動物園本園一帯は水田であった。正門付近の下池(現在の胡蝶池)、ボートの浮かぶ上池はともにかんがい用のため池であり、ヨシが一面においしげっていた。茶店が1軒だけポツンとたっていて、2時間に1本のバスに乗る者は茶店備え付けの赤旗をふってこれを止める。今日では考えられないような牧歌的な光景である。
昭和8年5月29日、名古屋にドイツの動物園経営者ローレンツ・ハーゲンベック氏率いるサーカス団がやってきた。ローレンツ氏はドイツの動物園王と呼ばれたカール・ハーゲンベック氏の弟である。カール氏はハンブルグの郊外に無柵放養方式の動物園を経営するとともに動物商としても大いに活躍、熱帯の動物を寒帯の気候に慣れさせ、その地域の餌で飼育するという技術を持っていた。サーカス団は現在の県庁と東海財務局付近で公演をうったが、その期間中、北王動物園長はローレンツ氏の宿舎である名古屋市東区の万平ホテルをしきりに訪れて、動物園の様式や飼育方法などを語りあっている。ローレンツ氏も北王園長のもとを訪れるとともに、記念としてオオヅル1羽を動物園に寄贈した。昭和11年9月にローレンツ氏は動物園建設にかんする貴重な資料をドイツから北王動物園長へ送っている
 
昭和10年4月3日には「東山公園」が開園した。しかし、これは公園の周辺と中央に道路を整備しただけのものであり、まだ動植物園の影もかたちもなかった。10月30日には名古屋市議会で「動物園移転拡張の件」が可決された。動物園の移転・拡張が公的に認知されたわけである。
設計工事は植物園が先行した。まず2月には京都府大山崎村で株式取引業加賀正太郎氏所有の温室の世話をしていた水野耕一氏が、植物園の技術者として招聘された。当時、日本には温室がまだ数少なく、皇室や華族、一部財産家が所有しているだけであり、水野氏の技術は貴重であった。同じく2月、当時名古屋市に採用されたばかりの一円俊郎技手に大温室設計の命がくだった。5月、市議会で設置関連予算242,000円が可決され、10月には大温室の設計を完了、昭和11年3月中旬には基礎工事を完了し、丘陵地の間に18万平方メートルの土地が整地された。このようにかなりのハイペースで整備は進捗している。また大温室の鉄骨組立て工事の際には、一円技手の発案で当時の最新技術である電気溶接を採用した。リベットで鉄骨を組み立てると、どうしても継ぎ目にでっぱりが生ずる。それを避けるための工法である。10月には事務所前の清見橋が完成した。11月8日には大温室の鉄骨、木骨が、ほぼ同時期にウグイス谷、奥池も形を整えている。12月には千畳敷回遊の小道、牡丹園、竹林があいついで完成した。これらの造成工事は後に初代植物園長になる横井時綱技師が担当している。横井技師は尾張藩俳人横井也有の子孫である。大温室の中の植物は水野耕一氏が手配した。前述の加賀正太郎氏からはランを、神戸の貿易商からゴムの木やガジュマル、三井財閥池田成彬家からアレカヤシの大木を入手し、大温室完成まで八事にあった豊田喜一郎氏の別荘の温室に預けた。
一方、動物園予定地では昭和11年7月3日に地鎮祭がとりおこなわれ、工事が開始された。名古屋市は動物園の敷地が大きく広がることを考慮し、春から夏にかけてペンギン、野牛、キリン、シロクマ、チンパンジーなどを購入。昭和12年1月にはアシカのオスを、3月には大阪市天王寺動物園からライオン3頭を入手して備えている。
鶴舞から東山への動物園移転の準備も始まり、1,000余点の動物は「巨大組」「猛獣組」「臆病組」「海獣組」「熱帯組」に大別された。ライオンなど、猛獣を移動させるのは一大事業であるが、中でも最も困難が予想されるのがゾウの移動である。そのため東京の上野動物園からタイ人のゾウ調教師、ノッパ・クン・ウイドラ氏を招聘し、調教を依頼した。
動物の移動は昭和12年1月24日から始まり、延べ28回をかけて3月22日に無事終了した。最初に移動したのはマレーグマ、ハイエナ、スナドリネコ、キノボリクマ、ヤマアラシ、アライグマなど計14匹。動物たちは午前9時から4時間かけてオリに入れられ、1台のトラックで東山へ運ばれた。ついでシロクマのつがい、クロヒョウなどが公会堂、大学病院、今池覚王山というコースで移送された。最も難しいゾウは3月13日、特製のオリに入れられ、トラクター2台に引かれて時速3キロで慎重に移動した。東山に到着したのは午後3時であった。その姿を一目見ようと沿道は黒山のひとだかりであったという。
この間、2月11日には旧名古屋市動物園がひっそりと閉園し、19年間の歴史にピリオドを打っている。
一方、開園が近づくにつれ東山公園付近の地価が急騰した。市が田代耕地区画整理組合から寄付された土地も急騰し、これによって20万円の収入を得ている。
 
 
カバが泳いでいたのでそれは次回に。
 
追記
ゾウの骨格標本は「チー」
高さ3.2m、全長4.5m
南アフリカ生まれ1983年来園、5トンの巨体で人気を集めた。
2009年心不全で死亡
陸上最大の動物を身近に感じられるようにと5年がかりで標本に。
絶滅危惧種で個体数が少ないため
全身標本は国内でも数えるほどしかない。
 
「驚くほど力が強くて賢い。楽しませてくれた相棒」と
晩年の10年を担当した飼育員の鈴木哲哉さん。
バキューム車が園内で下水を処理する音が大の苦手で
ゾウ舎の近くを走るバキューム車を見つけると、運動場にあった
長さ1メートルの丸太を鼻でつかみ、車へ投げ飛ばした!
丸太は車を超えて20m先の売店の屋根へ。
幸い休園日だった。
 
賢いチーは鈴木さんが「前脚!』と声をかける
とわざと鼻を差し出すことも。
「同じ雄」同士として命令されるばかりより
私より優位に立ちたかったのでは」

小学校の卒業式で、学院倶楽部からのメール

 

中京大学の中川武夫先生は公衆衛生学がご専門で、

道路問題、環境問題、公害問題で住民の立場に立ってくださる先生で、
交渉現場での勇姿は惚れ惚れとするもので、機会があればぜひ一見の価値あり。
今回はリニアのアセス=環境影響評価についての学習会があるそうです。
 
中日新聞も腰が大いにひけている中央リニア新幹線
出版停止問題もおきた大変な言論弾圧のテーマでもあります。
発売直前に、確か截断処分で発売できず、
出版社を変えてようやく出版できたという本もあります。
 
地震原発、それだけでなく工事に関わるさまざまな問題が私たちの暮らしや社会に大いなる負をもたらします。
 
学院倶楽部でもなんとか、一度、リニア問題を取り上げてみたいのですが。
 
学院倶楽部は大乗仏教です。
宮沢賢治が言うように、一人一人が幸せにならないうちは全体の幸福はないのです。
 
リニアMLからの転載です。
 
(引用開始)
 
皆様
1
 リニアに関する学習会をお知らせします。

 リニア中央新幹線の開業に向けた用地交渉や工事が始まり、岐阜県瑞浪市
は土砂からヒ素が検出されるなど地域住民の命と健康に関わる重大な問題が発
生しています。愛知県などに環境評価に対する意見書を提出された中川中京大
学教授にリニア中央新幹線がもたらす環境について講演をいただきます。また
JR懇談会の会員から「JR東海の現場」の報告を行います。

2017年4月15日(土) 14時~ 無料・自由参加
名古屋第一法律事務所 2階応接室  
名古屋市中区丸の内2-18-22 三博ビル
アクセス  http://daiichi-law.gr.jp/office/access
終了後、交流会予定
      
中川武夫(中京大学教授)「リニア中央新幹線における環境評価」
国労名古屋地方本部 第2回運輸職場からの報告「JR東海の職場では」

※問合せ 交通権学会中部関西部会 担当 可児紀夫さん  vyx05047@nifty.com
 
(引用終わり)
 
言論弾圧といえば、
 
与党は自民党が総務会で、公明党政調会で、共謀罪を了承しています。
森友学園問題でドタバタさせているうちに、
恐ろしい法律を本当に通過させようとしています。
 
一昨日見てきた「母 小林多喜二の母の物語」ですが、シネマスコーレで上映中です。
平日の昼間にもかかわらずほぼ満席。
1925年に最高刑懲役10年で導入、3年後に最高刑は死刑に。
死刑にするまえに、特高が事実上の「死刑」にできてしまう。
しかもプレス報道では「適正だった」としゃーしゃーとのたまう(→佐野史郎の演技が上手い!)。
 
辞任に値する防衛大臣に関する官房長官の態度、アッキード疑獄についての総理大臣の態度、すべて80年前となんら変わりない事態になっているんですけどね。
 
 
 
おしまい
 
 
※おまけ
今日は小学校の卒業式。有給をとって参加してよかった。
お父さんもほとんど参加していそうな保護者席で「国歌斉唱」は
なぜか女性の声しか聞こえなかった。
 
いや、それよりも、あれは教員席からなのか、保護者席なのか、
女性の声がけっこう朗々と聞こえてきた、複数。
権威に従順な思考停止が女性には多いのか。
(え、それは本当か)
 
ともかくも、40代、50代、そして30代以下も、今は右翼政権の支持層。
平和は60代以上が主。日本社会の血が入れ替わってしまうのもあと10年か20年で完了しそうな心配あり。
 
子ども達は、合唱が上手。
合唱部が全体を引っぱっていた印象。
さすが全国大会出場の学年ですね。
 
 
※続おまけ
20年か25年ぶりにバッティングセンターで振ってみた。
最初まったくあたらずかなり焦ったが、
そのうち当たりが出だして、ヒット性のライナーが出るようになってホッとした。
小学生のとき友達と背番号もつけてやっていた野球の感覚がしっかり残っているんですね。
 
 
※続々おまけ
明日から平和展です。名古屋教務所1階議事堂。
同じ場所で3月30日は「ザ・思いやり」上映会
①11時 ②14時半 ③18時半
1回千円。ブックレット600円。
 
 
合掌