ユリと猫
レトロな北海道旧庁舎、中央警察署、大通公園、イサムノグチ
http://www.myfood.jp/w_myfood/us_discovery/img/vol04_img02.jpg明治初期の北海道でアメリカ人といえば、多くの日本人はクラーク博士を思い出すでしょう。札幌農学校の初代教頭として「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の言葉が有名ですね。しかし、そもそも札幌農学校を誕生させたのがケプロンであり、彼の進言によってクラーク博士は迎えられたのです。
続北大植物園・日本初の製粉機の石臼と温室
関市に行く方法は?+子供?円空大賞
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もう車で行くのはちょっとなのでネット検索したらJRでとあり、
これがとんでもない
なんて知識ないのでしょうか。不親切なのか。
名鉄バスなら乗換無しで楽々だったのに。
劇場で知り合った女性から岐阜はさびれたから名古屋まで名鉄バスで買い物に行く、1時間で着いて1030円だと
こんな政治ではさびれます、駅でも駅弁と書いた建物は閉まったまま、
レストランもすぐには分からず劇場へ。
まず名古屋から岐阜へ、乗換て美濃太田へ
交通カードもきかない長良川鉄道
昔2年だけ住んだ郡上八幡も近いので泊まりたくなったほど。
美濃太田~関まで460円もかかりました!
でも可愛い1両の長良川鉄道に乗りました。
赤いのは長良川鉄道
関市文化会館
2時開演なのででまだ間に合うと空腹抱えてカフェへ
そこで一緒に並んだ女性からバスの事など教えてもらい
同じテーブルに。
ありがとうございます
でもなかなか注文聞いてくれず挙句にカレーのご飯はない、
パンだけと、
止めておけばよかったです。
コーヒーも全部飲めず劇場へ駆け込みました。
あまり空腹で劇場でお腹がなっても困ると思って。
文化会館のロビー
さすが円空の街、
関と言えば刃物です。
子供たちの作品、大胆
関は水が綺麗で鰻も美味しいとか、玉三郎丈も鰻が食べたいと。
帰りはすぐバスが来て楽に帰宅できました。
地方の劇場に行くと帰りが大変でマイカーで行くことが多かったのですが今回はプロドライバーに任せて安心でした。
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恥かしい、玉三郎丈に質問してしまった!
遠いので迷ったのですが イメージ 1 関で初めて人間国宝になられた土屋氏は若き日に玉三郎丈と染色家志村ふくみ氏との対談を読んで染色家を目指したと。 この話には玉三郎丈も責任のようなものを感じると。 土屋氏が大事にしておられるこの対談集と玉三郎丈の初期の本、私も持っています。 対談のお相手は吾妻徳穂、淡谷のりこ、水谷八重子ら当時一流の女性芸術家、お相手する方々も若き玉三郎丈との話は楽しかったことでしょう。 昔からしっかりとした考えをお持ちの玉三郎丈ですから、 綺麗だけではありません。 豪華なトークショー!人間国宝対談が実現. 関市文化会館第260回市民の劇場歌舞伎 を知ろう!として、トークショーとシネマ歌舞伎上映を開催。坂東氏が仕事への想いを 楽しく語る。 関市の人間国宝(紋紗)である土屋氏との対談。思い出の歌舞伎、 ... イメージ 2 土屋氏の作品 一部は対談、二部は玉三郎丈のトーク 一部の舞台に飾られた衣装は誠に涼やかで今の季節にぴったり、 色は同じ物を染色家に依頼しても無理なんですね、微妙なものです。 縞は庶民の物、貴族は着ません。失礼かもと。 ニ部は玉三郎トーク NYやイタリア旅行の写真を見ながら。 お若い時からイタリアでは布を買い占め 私など布が好きで何も作らないのにハギレを買ったりします。 トワルドジュイをカーテンやバックにしてもらい案した。 お好きな素潜りの映像もBS朝日で今月末に放送があります。 最後に観客の質問に答えると言うもの。 休憩中に書いてもらった質問の次に。 最近手を挙げて発言してしまう私、 勢いよく声出して手を挙げれば 当ててくれます。 冥土の土産に。 玉三郎丈のトークで今回初めに昨日観たミュージカル「レ・ミゼラブル」日本人の歌唱力が上がってとてもうれしくなったと言われたので ミュージカル大好き人間としては狂喜しました。 政岡の子役で共演した子役がガブローシュに 又玉三郎丈はLED(生涯使える電球を確保)やスマホの危険性(幼い時から使うと言語が遅れる)をしきりにおっしゃる。 人と人のつながりが薄れてしまった、失われた時を求めて 生の舞台観る人が減り危機感、人と人とのつながり薄れ絶望感のようなものを抱いておられるのです、爽やかに言われるのでが。 生の舞台や美術観るのが止められない私。なんでも見たいのです。 文楽能と歌舞伎の関連性、文楽で歌舞伎が分かると言うようなお話 自分のターニングポイントになった役は お染(早変わり七役のうち一番良くないと言われたお染、深窓の姫もあわない)揚巻・桜姫・政岡・雲 の絶間姫・天守物語・日本橋・ナスターシャ ふるあめりかに袖はぬらさじ 南北・鏡花・有吉等の作家に会えたような気持ち
行って良かった 役に切り替わるのは自動的、切り替わるにはどうすればいいかという質問に答えて、当たり前ですね。もう長年修練されています~。 質問のはずがミュージカルの話しや玉三郎丈に教えてもらった映画等が良かった、舞台が一瞬に替わるとかそんな話を。 話し終わって座った途端にもう繋がっている滑り症の骨が折れているような痛みが襲いました。 走ったり急な坂を急いで登る時よりも鋭く! 帰宅したらだんだん恥ずかしくなりなかなか眠れず明け方又変な夢見てしまいました。 車を当てられた夢 志村ふくみ 滋賀県近江八幡市生まれ。1942年(昭和17年)、文化学院卒業。文化学院の1学年上級には女優の高峰秀子がいた。 31歳のとき、若い頃に柳宗悦の民芸運動に共鳴して織物を習っていた母・小野豊の影響で、織物を始める[1]。 1957年(昭和32年)の第4回日本伝統工芸展に初出品で入選し、その後第五回で奨励賞、第六回、第八回で文化財保護委員会委員長賞、第七回で朝日新聞社賞、と4度の受賞を重ね、特待者となった。 1990年(平成2年)に農村の手仕事だった紬織を「芸術の域に高めた」と評価され、紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)の保持者に認定された。[2] また随筆の名手としても知られ『一色一生』で第10回(1983年度)大佛次郎賞を受賞している。 現在は京都市右京区嵯峨野に工房を構える。 2013年(平成25年)4月に京都市左京区岡崎に芸術体験を通して学ぶ場として、娘で同じく染織作家の志村洋子[3]とともにArs Shimura(アルスシムラ)を設立[1]。教本として『伝書しむらのいろ』を刊行した。同5月には、GALLERY FUKUMI SHIMURAをオープンした。2015年(平成27年)4月、Ars Shimura(アルスシムラ)2校目として、嵯峨校を開校した。 門下に2010年に紋紗(もんしゃ)の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された土屋順紀がいる 土屋順紀さん。関市に生まれ育ち、現在もこの地で制作活動を続ける染織家です。1954 年岐阜県関市に生まれ、京都の専門学校を卒業後、紬織の人間国宝志村ふくみ氏に 師事し、染織を学びました。1981年には、独立し関市に工房を構え、 ... 繊細に織り上げられる着物。 紋紗(もんしゃ)とは、特殊な織り方で作る軽くて薄い「紗地 」に、平織りで紋様を織り出した織物のこと。 平安時代以降「うすもの」と呼ばれて、公家 の夏装束とされてきた。現在でも着物に親しむ人たちの間では、夏の定番として定着し ... 紋紗、繊細で涼やか きちんと私を見て答えてくださった玉三郎丈、ありがとうございます! 一生の思い出です。
被爆体験もあるエキストラ8万8千人の「ひろしま」をみて
①原爆投下したパイロットの言葉。
映画は、高校の英語の授業から始まります。
ここで、戦後であることが分かります。
アメリカ軍で広島に原爆を落としたB29爆撃機「エノラ・ゲイ号」のパイロットの言葉が、ラジオから流れるのを聞いています。
その言葉は、「日本の真珠湾攻撃」とフィリピンでの「死のバターン行進」への憎しみと共に、広島に近づくにつれ、一瞬にして広島を「大量殺戮」の場とすることへの心の傷みとの葛藤が語られ、
その上で、日本に原爆を落とすことの正当性を、自ら納得させる言葉につながります。
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②有色人種だから原爆を落とすことが出来た。
教師(岡田英次)が一冊の本を読みます。
「ドイツではなく日本に原爆が落とされたのは、日本人が有色人種だからだ」という、(ヨーロッパの学者、或いは文学者が書いたであろう)一節を読みあげます。
*私は、この言葉は「その通りである」と感じてきました。
有色人種であるからこそ、原爆を落とすことが出来たのだと思っています。
2004年2月24日の毎日新聞で、作家の井上ひさしの文章があります。
HP「日日是・・・2009年8月6日」で、それを読んだ私の想いを書いたのですが、その1節を引用します。
井上ひさしの発言から。
(2004年2月24日の)新聞の記事は、作家・井上ひさしが会長を努める日本ペンクラブが「自衛隊のイラク派遣反対」を出したことについて述べたものでしたが、原爆投下に関してのみ引用します。
<特集ワイド・この国はどこへ行こうとしているのか>作家・井上ひさし。
2004年2月24日、毎日新聞・夕刊。
米英などは、私の子供の頃は「鬼畜米英」でした。鬼だからいくら殺してもいいという論理です。 *ポツダム会談中の1945年7月、当時の米大統領トルーマンは原爆実験が成功したとの暗号電報をうけとります。 でも彼は、原爆を落としていいのか悩むんです。これは史実として記録に残っていますが、ふんぎりがつかずにチャーチル英首相に相談する。 チャーチルはなかなか面白い人物で、評価する日本人は多いんですが,「落としなさい。相手はサルじゃないか」と言うんです。それでトルーマンは決心する。 チャーチルは1953年にノーベル文学賞を受賞しています。言葉に対してとても鋭い人でした。ドイツ語、フランス語も堪能でしたが「相手側の言語構造の中でモノを言っていると、 |
③ピカ(原爆)で死んだ人間の頭骸骨を米兵に売る。
こうしたことは、マンガ『はだしのゲン』にも描かれており、米兵が喜んで記念に買うようになっています。
おそらく、戦後の広島では、一方では生活のため(と、アメリカへの復讐の想いも入れて)、かなり行われていたのではないかと想像します。
マンガ『はだしのゲン』では、川底にある頭骸骨を探して、アメリカ兵に売りつける箇所があります。
当初は反対していたゲンも、仲間と共に売りつけるのですが、一緒に生活していた老人が、頭骸骨に「怨」という字を書いて、ゲンに言います。
“わしの家族をおばけのようにして殺しやがって。
今も、わしらを苦しめている怨みをはらしてもらいたいんじゃ。
みんな、たのむぞ。”(4巻、p194~224)
映画とマンガの表現方法は異なりますが、原爆で殺されたことへの憎しみには変わりありません。
ただ、私には、マンガでの「怨」の文字に、より直接的な気持ちが表わされているように感じたのですが。
上記の①②③点が、「反米的」として、配給元に成る筈の松竹からカットを要望されます。
しかし、監督の関川(と製作スタッフ)は、カットを拒否します。
そのため、一般公開は出来なくなり、ごく限られた上映の後に、いわゆる「お蔵入り」になってしまいました。
日本では上映がされずに、外国の映画祭では絶賛され「1955年ベルリン国際映画祭・長編映画賞」を受賞されるにいたります。