riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

ユリと猫

ユリは黄色、白、ピンクとよく咲いて目立ち美容師がほしがってくれました。通りすがりの男性も「良い香りがする、いつも楽しませてもらってます」と言ってくださいました。
 
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あまり強い香りでないので部屋に置いても大丈夫です。
 
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リボンと竜、右側にブランがいるのですがトリミングすると入らない。
 
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手前が竜ですがおっぱいが見えますwww
 
ここにも右側にブランが寝ていました。
 
リボンはストレッチポールに足のせて、
 
このポールはいつも活躍。
 
首輪の後がつき可哀想なので今は外しました。
 
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小さなバラはウィンチェスターキャセドラル
夏なのでいつもより小さい花
それでも咲きます。
バラは春しか咲かないと思ってる方がいますが四季咲きなら冬のはじめはおろか2月まで咲いていたことがあります。
 

 

レトロな北海道旧庁舎、中央警察署、大通公園、イサムノグチ

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北海道庁旧庁舎
ここまで来ると外国人観光客で賑わっていました。
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裏側
 
 
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暗くて
 
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裏側
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前の池
テントのお店も一杯出てました。
 
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赤レンガの旧庁舎から再び大通公園に向かう途中
レトロな頑丈そうな建物発見
 
北一条通りに面して建つ札幌方面中央警察署。昭和初期の貴重な建物でしたが、老朽化のために1996(平成8)年に解体され、その跡地に原型を再現する形で建てられた新庁舎です。

 1階部分はルスチカ風の石貼り、上層部は茶褐色のスクラッチタイル貼りの落ち着いた外観です。コーナー部が湾曲し、そこに玄関を配置するモダンな設計。大きな円形の玄関庇がアクセントになって存在感を強調しています。中層部に並ぶ丸窓やコーニス(壁に水平に付いた横方向の装飾部材)に凝った意匠が見られます。さっぽろ・ふるさと文化百選に指定された鉄筋コンクリート造3階建て。

北海道警察 札幌方面中央警察署
1934(昭和9)年/1998(平成10)年復元
さっぽろ・ふるさと文化百選
旧庁舎設計 : 田子秀次郎、三上一郎(北海道庁技師)
復元設計 : 岡田新一設計事務所
復元施工 : 竹中工務店ほか
札幌市中央区北1西5
 
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大通公園にはブロンズやモニュメント、子供の遊び場があります。
 
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子供たちが滑って遊んでいた
ブラックスライドマントラ
 
子供たちが芸術に親しみながら遊べるように滑り台として造られた
 
ノグチの強い希望で8丁目と9丁目の道路を遮断して
今の位置に設置された
 
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刈谷のSA,温泉前の噴水でも子供たちが水遊びしています。
 
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ホーレスケプロン像と黒田清輝
 
合衆国農務長官を辞して来日
北海道の歴史を語るとき、ホーレス・ケプロンの存在を欠くことはできません。蝦夷地からその名を変えた明治初期、すでに老いていたこのアメリカ人の奮闘によって、北海道は開拓されたのです。
http://www.myfood.jp/w_myfood/us_discovery/img/vol04_img02.jpg明治初期の北海道でアメリカ人といえば、多くの日本人はクラーク博士を思い出すでしょう。札幌農学校の初代教頭として「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」の言葉が有名ですね。しかし、そもそも札幌農学校を誕生させたのがケプロンであり、彼の進言によってクラーク博士は迎えられたのです。
 
 
南北戦争北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府農務局長となった。1871年明治3 - 4年)、渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。1875年(明治8年)5月帰国。
日本では積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進した。札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンである。また、1872年(明治4 - 5年)、開拓使東京事務所で、ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供されていることが分かっており、これはライスカレーという単語が使われた最初期の例である。
ケプロンの仕事は多岐に渡り、北海道の道路建設鉱業工業農業水産業など、開拓のほぼ全領域に渡っている。特に著名で重要なものを次に記載する。
北海道は寒く、イネが育たないため、をつくることを奨励。北海道ではパン食を推進すべきだと主張した。ケプロンが麦作を奨励したことは、後に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が設立される遠因になった。
単にをとるだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言。ケプロンの進言に従い、1877年(明治10年)10月10日(ケプロン離日後)、日本初の缶詰量産工場である石狩缶詰所が作られた。この日(10月10日)は、日本では缶詰の日になっている。開拓使はこれ以外にも道内沿岸部に次々とサケ缶詰製造工場を建設した。
 
黒田清輝記念館、無料
 
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今回ロンドンには行けなかったど
函館札幌、廻ることが出来ました。
函館の建物、夜景
特に思いがけずイサム・ノグチの広大なヌエレ沼公園、
中島公園に行けたのは幸いです。
 
 
北海道であと残すのは旭山動物園
 
昨日来たJAF岩合光昭氏のカバの写真、さすが畏怖を感じるカバさん
2トンもあっては車もかなわないけど繊細な動物だそうです。

続北大植物園・日本初の製粉機の石臼と温室

 

 

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米国から購入した「石臼」式製粉機を札幌製作場の水車機械に装置して小麦粉を試製し たのが始まり。 ... 製粉工場が完成するまで使われた「石臼」は後年、日本製粉より 北海道大学に寄贈され、同大農学部付属博物館(現・植物園・博物館) に保存されて いる。
 
 
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湿生園、この先でカラスに威嚇され引き換えしました。
 
湿地帯、好きなのですが。
 
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温室へ
 
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防犯カメラ作動中
 
北アメリカに自生するアツモリソウの仲間
可愛いレブンアツモリソウ
 
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ササガユリ ヒガンバナ科
 
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6月21,22日の函館・札幌2泊3日の旅も後は
北海道庁旧本庁舎と大通り公園のイサム・ノグチのモニュメント
で終わりです。
長々ありがとうございます。

関市に行く方法は?+子供?円空大賞

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もう車で行くのはちょっとなのでネット検索したらJRでとあり、
名鉄電車でも聞いたら、名鉄は行かない、JRに乗れと、
これがとんでもない
 
なんて知識ないのでしょうか。不親切なのか。
名鉄バスなら乗換無しで楽々だったのに。
 
劇場で知り合った女性から岐阜はさびれたから名古屋まで名鉄バスで買い物に行く、1時間で着いて1030円だと
 
こんな政治ではさびれます、駅でも駅弁と書いた建物は閉まったまま、
レストランもすぐには分からず劇場へ。
 
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まず名古屋から岐阜へ、乗換て美濃太田
 
交通カードもきかない長良川鉄道
 
昔2年だけ住んだ郡上八幡も近いので泊まりたくなったほど。
美濃太田~関まで460円もかかりました!
 
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でも可愛い1両の長良川鉄道に乗りました。
 
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赤いのは長良川鉄道
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関市文化会館
 
2時開演なのででまだ間に合うと空腹抱えてカフェへ
そこで一緒に並んだ女性からバスの事など教えてもらい
同じテーブルに。
ありがとうございます
でもなかなか注文聞いてくれず挙句にカレーのご飯はない、
パンだけと、
止めておけばよかったです。
コーヒーも全部飲めず劇場へ駆け込みました。
あまり空腹で劇場でお腹がなっても困ると思って。
 
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文化会館のロビー
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さすが円空の街、
関と言えば刃物です。
 
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子供たちの作品、大胆
 
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関は水が綺麗で鰻も美味しいとか、玉三郎丈も鰻が食べたいと。
 
帰りはすぐバスが来て楽に帰宅できました。
 
地方の劇場に行くと帰りが大変でマイカーで行くことが多かったのですが今回はプロドライバーに任せて安心でした。
 

恥かしい、玉三郎丈に質問してしまった!

遠いので迷ったのですが イメージ 1 関で初めて人間国宝になられた土屋氏は若き日に玉三郎丈と染色家志村ふくみ氏との対談を読んで染色家を目指したと。 この話には玉三郎丈も責任のようなものを感じると。 土屋氏が大事にしておられるこの対談集と玉三郎丈の初期の本、私も持っています。 対談のお相手は吾妻徳穂、淡谷のりこ、水谷八重子ら当時一流の女性芸術家、お相手する方々も若き玉三郎丈との話は楽しかったことでしょう。 昔からしっかりとした考えをお持ちの玉三郎丈ですから、 綺麗だけではありません。 豪華なトークショー人間国宝対談が実現. 関市文化会館第260回市民の劇場歌舞伎 を知ろう!として、トークショーシネマ歌舞伎上映を開催。坂東氏が仕事への想いを 楽しく語る。 関市の人間国宝(紋紗)である土屋氏との対談。思い出の歌舞伎、 ... イメージ 2 土屋氏の作品 一部は対談、二部は玉三郎丈のトーク 一部の舞台に飾られた衣装は誠に涼やかで今の季節にぴったり、 色は同じ物を染色家に依頼しても無理なんですね、微妙なものです。 縞は庶民の物、貴族は着ません。失礼かもと。 ニ部は玉三郎トーク NYやイタリア旅行の写真を見ながら。 お若い時からイタリアでは布を買い占め 私など布が好きで何も作らないのにハギレを買ったりします。 トワルドジュイをカーテンやバックにしてもらい案した。 お好きな素潜りの映像もBS朝日で今月末に放送があります。 最後に観客の質問に答えると言うもの。 休憩中に書いてもらった質問の次に。 最近手を挙げて発言してしまう私、 勢いよく声出して手を挙げれば 当ててくれます。 冥土の土産に。 玉三郎丈のトークで今回初めに昨日観たミュージカル「レ・ミゼラブル」日本人の歌唱力が上がってとてもうれしくなったと言われたので ミュージカル大好き人間としては狂喜しました。 政岡の子役で共演した子役がガブローシュに 又玉三郎丈はLED(生涯使える電球を確保)やスマホの危険性(幼い時から使うと言語が遅れる)をしきりにおっしゃる。 人と人のつながりが薄れてしまった、失われた時を求めて 生の舞台観る人が減り危機感、人と人とのつながり薄れ絶望感のようなものを抱いておられるのです、爽やかに言われるのでが。 生の舞台や美術観るのが止められない私。なんでも見たいのです。 文楽能と歌舞伎の関連性、文楽で歌舞伎が分かると言うようなお話 自分のターニングポイントになった役は お染(早変わり七役のうち一番良くないと言われたお染、深窓の姫もあわない)揚巻・桜姫・政岡・雲 の絶間姫・天守物語・日本橋・ナスターシャ ふるあめりかに袖はぬらさじ 南北・鏡花・有吉等の作家に会えたような気持ち

行って良かった 役に切り替わるのは自動的、切り替わるにはどうすればいいかという質問に答えて、当たり前ですね。もう長年修練されています~。 質問のはずがミュージカルの話しや玉三郎丈に教えてもらった映画等が良かった、舞台が一瞬に替わるとかそんな話を。 話し終わって座った途端にもう繋がっている滑り症の骨が折れているような痛みが襲いました。 走ったり急な坂を急いで登る時よりも鋭く! 帰宅したらだんだん恥ずかしくなりなかなか眠れず明け方又変な夢見てしまいました。 車を当てられた夢 志村ふくみ 滋賀県近江八幡市生まれ。1942年(昭和17年)、文化学院卒業。文化学院の1学年上級には女優の高峰秀子がいた。 31歳のとき、若い頃に柳宗悦民芸運動に共鳴して織物を習っていた母・小野豊の影響で、織物を始める[1]。 1957年(昭和32年)の第4回日本伝統工芸展に初出品で入選し、その後第五回で奨励賞、第六回、第八回で文化財保護委員会委員長賞、第七回で朝日新聞社賞、と4度の受賞を重ね、特待者となった。 1990年(平成2年)に農村の手仕事だった紬織を「芸術の域に高めた」と評価され、紬織の重要無形文化財保持者(人間国宝)の保持者に認定された。[2] また随筆の名手としても知られ『一色一生』で第10回(1983年度)大佛次郎賞を受賞している。 現在は京都市右京区嵯峨野に工房を構える。 2013年(平成25年)4月に京都市左京区岡崎に芸術体験を通して学ぶ場として、娘で同じく染織作家の志村洋子[3]とともにArs Shimura(アルスシムラ)を設立[1]。教本として『伝書しむらのいろ』を刊行した。同5月には、GALLERY FUKUMI SHIMURAをオープンした。2015年(平成27年)4月、Ars Shimura(アルスシムラ)2校目として、嵯峨校を開校した。 門下に2010年に紋紗(もんしゃ)の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された土屋順紀がいる 土屋順紀さん。関市に生まれ育ち、現在もこの地で制作活動を続ける染織家です。1954 年岐阜県関市に生まれ、京都の専門学校を卒業後、紬織の人間国宝志村ふくみ氏に 師事し、染織を学びました。1981年には、独立し関市に工房を構え、 ... 繊細に織り上げられる着物。 紋紗(もんしゃ)とは、特殊な織り方で作る軽くて薄い「紗地 」に、平織りで紋様を織り出した織物のこと。 平安時代以降「うすもの」と呼ばれて、公家 の夏装束とされてきた。現在でも着物に親しむ人たちの間では、夏の定番として定着し ... 紋紗、繊細で涼やか きちんと私を見て答えてくださった玉三郎丈、ありがとうございます! 一生の思い出です。

遠いので迷ったのですが
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関で初めて人間国宝になられた土屋氏は若き日に玉三郎丈と染色家志村ふくみ氏との対談を読んで染色家を目指したと。
この話には玉三郎丈も責任のようなものを感じると。
 
土屋氏が大事にしておられるこの対談集と玉三郎丈の初期の本、私も持っています。
 
対談野お相手はは吾妻徳穂、淡谷のりこ、水谷八重子ら当時一流の女性芸術家、お相手する方々も若き玉三郎丈との話は嬉しかったことでしょう。
昔からしっかりとした考えをお持ちの玉三郎丈ですから、
綺麗だけではありません。
 
 
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土屋氏の作品
 
一部は対談、二部は玉三郎丈のトーク
 
一部の舞台に飾られた衣装は誠に涼やかで今の季節にぴったり、
 
色は同じ物を染色家に依頼しても無理なんですね、微妙なものです。
 
縞は庶民の物、貴族は着ません。失礼かもと。
 
 
NYやイタリア旅行の写真を見ながら。
 
お若い時からイタリアでは布を買い占め
 
私など布が好きで何も作らないのにハギレを買ったりします。
トワルドジュイをカーテンやバックにしてもらい案した。
 
お好きな素潜りの映像もBS朝日で今月末に放送があります。
 
最後に観客の質問に答えると言うもの。
 
休憩中に書いてもらった質問の次に。
 
最近手を挙げて発言してしまう私、
勢いよく声出して手を挙げれば
当ててくれます。
 
冥土の土産に。
 
玉三郎丈のトークで今回初めに昨日観たミュージカル「レ・ミゼラブル」日本人の歌唱力が上がってとてもうれしくなったと言われたので
ミュージカル大好き人間としては狂喜しました。
 
政岡の子役で共演した子役がガブローシュに
 
玉三郎丈はLED(生涯使える電球を確保)やスマホの危険性(幼い時から使うと言語が遅れる)をしきりにおっしゃる。
 
人と人のつながりが薄れてしまった、失われた時を求めて
 
生の舞台観る人が減り危機感、人と人とのつながり薄れ絶望感のようなものを抱いておられるのです、爽やかに言われるのでが。
 
生の舞台や美術観るのが止められない私。なんでも見たいのです。
 
文楽能と歌舞伎の関連性、文楽で歌舞伎が分かると言うようなお話
 
自分のターニングポイントになった役は
 
お染(早変わり七役のうち一番良くないと言われたお染、深窓の姫もあわない)揚巻・桜姫・政岡・雲 の絶間姫・天守物語・日本橋・ナスターシャ
ふるあめりかに袖はぬらさじ
 
南北・鏡花・有吉等の作家に会えた気持ち
 
行って良かった
 
役に切り替わるのは自動的、切り替わるにはどうすればいいかという質問に答えて、当たり前ですね。もう長年修練されています~。
 
質問のはずがミュージカルの話しや玉三郎丈に教えてもらった映画等が良かった、舞台が一瞬に替わるとかそんな話を。
 
話し終わって座った途端にもう繋がっている滑り症の骨が折れているような痛みが襲いました。
 
走ったり急な坂を急いで登る時よりも鋭く!
 
帰宅したらだんだん恥ずかしくなりなかなか眠れず明け方又変な夢見てしまいました。
車を当てられた
 
志村ふくみ
滋賀県近江八幡市生まれ。1942年(昭和17年)、文化学院卒業。文化学院の1学年上級には女優の高峰秀子がいた。
31歳のとき、若い頃に柳宗悦民芸運動に共鳴して織物を習っていた母・小野豊の影響で、織物を始める[1]
1957年(昭和32年)の第4回日本伝統工芸展に初出品で入選し、その後第五回で奨励賞、第六回、第八回で文化財保護委員会委員長賞、第七回で朝日新聞社賞、と4度の受賞を重ね、特待者となった。 1990年(平成2年)に農村の手仕事だった紬織を「芸術の域に高めた」と評価され、紬織の重要無形文化財保持者人間国宝)の保持者に認定された。[2] また随筆の名手としても知られ『一色一生』で第10回(1983年度)大佛次郎賞を受賞している。
現在は京都市右京区嵯峨野に工房を構える。
2013年(平成25年)4月に京都市左京区岡崎に芸術体験を通して学ぶ場として、娘で同じく染織作家の志村洋子[3]とともにArs Shimura(アルスシムラ)を設立[1]。教本として『伝書しむらのいろ』を刊行した。同5月には、GALLERY FUKUMI SHIMURAをオープンした。2015年平成27年)4月、Ars Shimura(アルスシムラ)2校目として、嵯峨校を開校した。
門下に2010年に紋紗(もんしゃ)の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された土屋順紀がいる
 
 
 
 
 
紋紗、繊細で涼やか
 
きちんと私を見て答えてくださった玉三郎丈、ありがとうございます!
一生の思い出です。

 

被爆体験もあるエキストラ8万8千人の「ひろしま」をみて

www.youtube.com

前日の天木直人講演会でこの映画のチラシ貰い、
その日の朝刊にはこの映画公開の記事が載りました。
 
地下鉄とバスの乗りついで、臨時バスも出ていて
なんとか上映に間に会いました。
 
DVDでもいいかなと思ったのですが助監督小林大平氏のお孫さん
小林開の話もあり隣席には熱心に映画を観て泣いて、
私が戦争体験者かと聞いてきた男子高校生が
 
 
 
岡崎から毎日このセミナーに通ってくると言うたのもしい高校生で嬉しくなりました。
 
 
 
最後には2人とも皆さんの前でお話も出来ました。
助監督にはあの熊井啓さんの名前も。
 
古い映画で雨が降ろうとも忘れられない名シーンが
 
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そのひとつが女性教師が生徒と共に死んでいく場面。
 
当時の映画界には5社協定があり他の映画会社の映画には出演不可能、
破ってすざまじいバッシング受けた俳優もいました。
 
でもアメリカの俳優は社会貢献している、私も何かやりたいとノーギャラで出演した広島出身の月丘夢路
 
宝塚出身であり気品あるその姿、一度舞台で拝見しました。
 
この映画で被爆し子供たちを引率しながら、川に逃れたけれども力つき溺れていく姿
 
最後に死者?が起き上がっている場面
忘れられないでしょう。
 
当時、全国的に公開できず、広島のみで公開、その理由は下の方にあり案す。
今でも長崎では公開出来ないとか…そんな~
 
この映画を新しく作りたいと言うことですがこの映画は貴重です。
 
 
パンフレットから。   
  “広島の市民ら約8万8千人が出演し、原爆が投下された直後の惨状を再現した・・・”
“自らも広島で被爆した教育学者・長田 新(おさだ・あらた)が編纂した文集「原爆の子~広島の少年少女のうったえ」を、日本教職員組合が映画化を決定し、八木保太郎の脚色により映画化された
本作は広島県教職員組合と広島市民の全面的な協力の下で製作され、多数の広島市の中学・高校と父母、教職員、一般市民等約8万8500人が手弁当のエキストラとして参加した。
その中には、原爆を直接経験した者も少なくなかった。
映画に必要な戦時中の服装や防毒マスク、鉄カブト等は、広島県下の各市町村の住民から約4000点が寄せられた。
「ひろしま」で描かれている原爆投下後の圧倒的な群衆シーンの迫力は、これらの広島県民の協力なくしてはあり得なかっただろう。
東宝出身で戦後独立プロに転じた関川秀雄は、原爆が投下された直後の地獄絵図の映像化に精力を傾け、百数カットに及ぶ撮影を費やして、克明に原爆被災現場における救護所や太田川の惨状等の阿鼻
叫喚の修羅場を再現した。そして、被爆者たちのその後の苦しみを描いた。それはひとえに被爆者の声でもあった。
被爆国ニッポンは、すべての核を否定すべきであった。唯一の被爆国だというのに、私たちは、核の恐ろしをもっと大きな声で訴えてこなかったのか・・。
原発も核開発に他ならない。”
B)この映画が一般に公開されなかった3つの理由。

①原爆投下したパイロットの言葉。

映画は、高校の英語の授業から始まります。
ここで、戦後であることが分かります。
アメリカ軍で広島に原爆を落としたB29爆撃機エノラ・ゲイ号」のパイロットの言葉が、ラジオから流れるのを聞いています。
その言葉は、「日本の真珠湾攻撃」とフィリピンでの「死のバターン行進」への憎しみと共に、広島に近づくにつれ、一瞬にして広島を「大量殺戮」の場とすることへの心の傷みとの葛藤が語られ、
その上で、日本に原爆を落とすことの正当性を、自ら納得させる言葉につながります。

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②有色人種だから原爆を落とすことが出来た。

教師(岡田英次)が一冊の本を読みます。
「ドイツではなく日本に原爆が落とされたのは、日本人が有色人種だからだ」という、(ヨーロッパの学者、或いは文学者が書いたであろう)一節を読みあげます。

*私は、この言葉は「その通りである」と感じてきました。
有色人種であるからこそ、原爆を落とすことが出来たのだと思っています。

2004年2月24日の毎日新聞で、作家の井上ひさしの文章があります。
HP「日日是・・・2009年8月6日」で、それを読んだ私の想いを書いたのですが、その1節を引用します。

井上ひさしの発言から。
(2004年2月24日の)新聞の記事は、作家・井上ひさしが会長を努める日本ペンクラブが「自衛隊イラク派遣反対」を出したことについて述べたものでしたが、原爆投下に関してのみ引用します。
<特集ワイド・この国はどこへ行こうとしているのか>作家・井上ひさし
2004年2月24日、毎日新聞・夕刊。

米英などは、私の子供の頃は「鬼畜米英」でした。鬼だからいくら殺してもいいという論理です。
「米国人、英国人はいくら殺してもいい」というと、真に迫りすぎる、でも鬼畜ならばケダモノだから殺すのが少し楽になる。言葉によって、対象物の質を変えているんです。
米国だって日本人をイエローモンキー、黄色いサルと呼んでいました。

ポツダム会談中の1945年7月、当時の米大統領トルーマンは原爆実験が成功したとの暗号電報をうけとります。 でも彼は、原爆を落としていいのか悩むんです。これは史実として記録に残っていますが、ふんぎりがつかずにチャーチル英首相に相談する。

チャーチルはなかなか面白い人物で、評価する日本人は多いんですが,「落としなさい。相手はサルじゃないか」と言うんです。それでトルーマンは決心する。

チャーチルは1953年にノーベル文学賞を受賞しています。言葉に対してとても鋭い人でした。ドイツ語、フランス語も堪能でしたが「相手側の言語構造の中でモノを言っていると、
相手側の有利に物事が動いてしまう」と外交交渉では英語しか使わなかった。
その言葉の達人が「気を楽にしろ、相手はサルだ」と言ったのです。

被爆したこどもたちが辛い体験を素直にりかたまだ原爆体験持った方がエキストラに!

③ピカ(原爆)で死んだ人間の頭骸骨を米兵に売る。

映画後半で、教え子が、米兵に売るために、ピカ(原爆)で死んだ人間の頭骸骨を掘り出すシーンがあります。
こうしたことは、マンガ『はだしのゲン』にも描かれており、米兵が喜んで記念に買うようになっています。
おそらく、戦後の広島では、一方では生活のため(と、アメリカへの復讐の想いも入れて)、かなり行われていたのではないかと想像します。

マンガ『はだしのゲン』では、川底にある頭骸骨を探して、アメリカ兵に売りつける箇所があります。
当初は反対していたゲンも、仲間と共に売りつけるのですが、一緒に生活していた老人が、頭骸骨に「怨」という字を書いて、ゲンに言います。

  “このガイコツがアメリカ兵に買われて、アメリカに渡ったら、アメリカにいる原爆を落とした奴らを、恨み殺してもらいたいんじゃ。”
“わしの家族をおばけのようにして殺しやがって。
今も、わしらを苦しめている怨みをはらしてもらいたいんじゃ。
みんな、たのむぞ。”(4巻、p194~224)


映画とマンガの表現方法は異なりますが、原爆で殺されたことへの憎しみには変わりありません。
ただ、私には、マンガでの「怨」の文字に、より直接的な気持ちが表わされているように感じたのですが。

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上記の①②③点が、「反米的」として、配給元に成る筈の松竹からカットを要望されます。
しかし、監督の関川(と製作スタッフ)は、カットを拒否します。
そのため、一般公開は出来なくなり、ごく限られた上映の後に、いわゆる「お蔵入り」になってしまいました。

日本では上映がされずに、外国の映画祭では絶賛され「1955年ベルリン国際映画祭長編映画賞」を受賞されるにいたります。

カットを要望した映画会社にたいして、一切を拒否した監督の姿勢の正しさは、61年をへて観る私たちへの強いメッセージをもって言い切れるでしょう。
 
 

ストーリー

広島A高校三年、北川の担任するクラスで原爆当時のラジオ物語を聞いていた大庭みち子は、突然恐怖に失心した。原爆の白血病によって前から身体の変調を来していたのだ。クラスの三分の一を占める被爆者達にとって、忘れる事の出来ない息づまる様な思い出だった。それなのに今広島では、平和記念館の影は薄れ、街々に軍艦マーチは高鳴っている。あの日みち子の姉の町子は警報が解除され疎開作業の最中に、米原先生始め級の女学生達と一緒にやられたのだ。みち子は爆風で吹き飛ばされた。弟の明男も黒焦げになった。今はぐれてしまった遠藤幸夫の父秀雄は、妻よし子が梁の下敷で焼死ぬのをどうする事も出来なかった。陸軍病院に収容された負傷者には手当の施しようもなく狂人は続出し、死体は黒山の如くそこここに転りさながら生き地獄だった。しかし軍部は仁科博士らの進言を認めようとせず、ひたすら聖戦完遂を煽るのだった。その戦争も終ったが、悲惨な被爆者にとって今更降伏が何になるのか。広島には七十年間生物は住めないと云う。病院の庭に蒔かれた大根の芽が出るまでは、人々はそれを信ぜずにはいられなかった。疎開先から引き返してきた幸夫と洋子の兄妹は、病院の父に会いにいったが、そのひどい形相にどうしても父と思う事が出来なかった。父は死に広島には七回目の八月六日が廻ってきたのに、幸夫はその間浮浪児収容所、伯父の家と転々して次第に荒んでゆき、遂には浮浪児を使って掘り出した死体の頭骸骨を、原爆の記念に米人に売ろうとさえした。みち子は河野達級友に見守られながら死んだ。北川に連れられて警察を出てきた幸夫を、今また河野達は「明日は僕らの手で」の合唱で元気づけるのだった。...
 
被爆したのは日本人だけでなく植民地下の朝鮮の人や米軍捕虜もいました。

 

 

JR札幌駅から歩いて行ける北大植物園

今回、前から気になっていた北大植物園←に行くことが出来ました。
JR札幌駅から徒歩10分
私は大通公園から歩きました。
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ここにも薔薇園があります。ピース、平和が一番
 
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植物園の博物館、この建物を写生するグループが来ていました。
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北海道らしいですね。
 
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昔の学校を観るようです。
 
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カナディアンロックガーデンや
北方民族植物園標本園、ライタック並木、温室などあります。
ここでもカラスに威嚇され引き換えしました
 
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海外でもピオニーと呼ばれ人気ある芍薬
 
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薔薇園
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ここにもライラックを北海道に持ち込んだ女性の写真等ありました。
中央の写真の女性
ライラックまつりは1959年に第1回が行われた。大通公園4丁目で行われたこの最初のまつりでは、トラックでパレードが行われた。1889年学校法人北星学園創始者サラ・クララ・スミスアメリカ合衆国から持ち込んだものが札幌市におけるライラックの始まりであり、その後札幌市内に広まったライラックは、第1回が行われた翌年の1960年に市民投票が行われ「札幌市の木」に選定された。
 
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植物園庁舎(旧札幌農学校動植物学教室)
 
宮部金吾記念館
植物博士として、又、北大植物園生みの親として良く知られている、宮部金吾(みやべきんご)は、学者としてのみならず札幌市発展の功労者として1924年(昭和24年)7月10日、札幌市名誉市民第一号の称号が贈られています。宮部金吾は、1860年(万延元年)江戸で生まれ、1881年(明治14年)札幌農学校を卒業、2年間東京大学に派遣され、帰校後は札幌農学校の助教授を拝命し、植物園の開設を命ぜられています。博士は、生涯を植物の研究に捧げられましたが、敬虔なクリスチャンとして札幌独立教会を創立しその維持発展にも尽力を尽くされました。1947年(昭和22年)3月16日、満90才で他界されました。所蔵 北大付属図書館
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