riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">国家に殺された反戦川柳作家鶴彬の映画公開</span>


鶴彬 こころの軌跡公式サイト
youtube神山征二郎監督作品『鶴彬 こころの軌跡』予告編あります。動画は載せられなくなりました。


蟹工船」の小林多喜二のお母さん、思い出します。

もう泣けそうです、こちらでは8月1日から公開です。

手と足をもいだ丸太にしてかえし
 万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た
みな肺で死ぬる女工の募集札

鶴彬反戦川柳作家で29歳の若さで警察に拘留され、殺された。

私はどこかでこの川柳を詠んだのだが忘れていた。思い出したのは
恩師お勧めで読み始めた雑誌「世界」の記事。

2007、5月号の特集は「施行60年目の憲法状況」、その号に鶴彬が載っていた。

他に「慰安婦問題が照らし出す安倍政権の本質」 山崎朋子さんの連載「アジア女性交流史」も丁度<日本軍=性奴隷の悲劇>

 連載の「世代を超えて語り継ぎたい戦争文学」で懐かしい名をみつけた。尊敬する作家澤地久枝さんと佐高信さんが対談。

五味川純平の「人間の條件(これも先輩に勧められ映画と共に夢中になった。)紹介もあった。その時は川柳作家鶴彬を取り上げている。




 写真は世界のものでなく風柳祐生子氏の著作のものをお借りした。
いい御顔ですね。

懐かしい名というのは「歴史と庶民の対話」の著者高橋眞一氏



 一叩人(本名命尾小太郎)が全文ガリ版で総ページ935の鶴の手作り全集を出していて澤地さんがこれを知り、鶴と一叩人両方の事を書こうとした。でも一叩人は自分のことは書かなくていいと怒ったそうだ。

 出稼ぎの女工さんや親のため身を売った女性を歌った作品もある。
 
ふるさとは病ひと一しょに帰るとこ
 修身にない孝行で淫売婦

 軍のなかでも抵抗した鶴、、鶴をよみがえらせた一叩人、たいまつ社版「鶴彬全集」を増補復刻した澤地さん、これを16000円で買った人々、この流れは胸に迫った。

Last updated 2007.06.08 23:07:27楽天拙ブログ

以下は山上俊夫・日本と世界あちこち
より引用させていただきました。
昨日(09・6・7)の朝日の「天声人語」に反戦川柳作家・鶴彬(つるあきら)のことが書かれていた。鶴彬(本名・喜多一二・きたかつじ)は川柳で国家に刃をむけ、国家に命をうばわれた人だ。この鶴彬の生涯を映画化した「鶴彬 こころの軌跡」を紹介している。監督は、「ハチ公物語」「月光の夏」や「郡上一揆」などをつくった神山征二郎さんだ。
 鶴彬は、1909(明治42)年、石川県高松町生れ。少年時代より句作をはじめ、「北国新聞」に投稿していた。やがてプロレタリア川柳を提唱するようになり、仲間とともに19歳で検挙された。澤地久枝は、彼の「おそれを知らない文章」と率直な行き様に思いを寄せる。
1930(昭和5)年、第9師団金沢歩兵7連隊に入営。翌31年、兵営内に「無産青年」紙を持ち込んだことで7連隊赤化事件として軍法会議にかけられ、懲役2年とされ、大阪衛戍監獄(えいじゅかんごく)に囚われた。衛戍監獄は大阪城内にあった。いまも一部遺構がのこる。大阪市大阪城公園事務所がそれだ。大手門から入ってすぐ右手にある。高いレンガ造りの塀は当時のものだ。師団司令部のある戦争の一大拠点大阪城は、反戦抵抗の場でもあった。
 17歳で大阪の町工場に勤めたが、以後、軍隊生活をはさんで、故郷と東京での生活をおくり、句作と評論の活動をおしすすめた。
 1937(昭和12)年12月3日朝、出勤を待ち伏せていた特高警察によって、治安維持法違反で検挙され、中野区野方署に留置された。権力の恣意によって延々と留置された。野蛮なとりあつかいと粗末な食事は体力を消耗させた。翌年8月後半、赤痢にかかった。警察は治療をせず、肉親を呼びつけ、自費治療を命じなからも釈放はしないという不当な仕打ちをした。豊多摩病院に移されたが、重篤となり、9月14日死亡した。お通夜に野方署の人間がきて型どおりのくやみをのべたのに対して、母は「殺しておいて今さら何を言うか」と詰め寄った。まさに、警察権力によって殺されたのだ。
 赤痢菌は食物や水により伝染する病気だ。鶴は差し入れもとだえ、警察の食事ではやせ衰える一方だった。だから差し入れの食事に赤痢菌が入っていたとは考えにくい。とすれば、警察の食事か水が原因となる。だが、他の留置者も含めて集団感染したということではない。だとすると疑念は深まる。鶴彬は、頑として屈しない男だった。激しく抵抗する人だった。特高は鶴を人一倍憎んだだろう。私は以前から、鶴彬は特高によって、赤痢菌を盛られたのではないかと思っていた。
 昨日、金沢の川柳人岡田一杜(いっと)氏の『川柳人 鬼才鶴彬の生涯』(機関誌出版、1997年)を読んだら(当時買って読まずにそのままになっていた)、年譜の後に、重要な証言が載せられていた。

 元731部隊で従事し、伝染病棟の医師でもあった湯浅謙氏は、数年前広島で開催された「731部隊展」の折に、川柳「和」同人の質問に対して次のように答えている。
 (解答要旨)「1937年頃<丸太>は傷病兵に対する隠語であった。留置場で普通の赤痢で死亡することは皆無である。とても考えられない特異な例だ。赤痢菌添加物を食べさせ実験をしてから、赤痢菌多量接種して死亡させる、は考えられる。―皇軍による罪科の殆どは証言者が現れ解明されているが、特高関係については未だに誰も詳言して呉れない。だから特高の本当の任務内容が闇の儘である。証言者が現れたら赤痢菌を接種されたかどうか見当がつくのだが―。鶴彬は(731部隊用語の)マルタ1号にされたのではないでしょうか。」

 鶴彬の死の真相は究明されなければならない。