riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">密約 外務省機密漏洩事件</span>



写真は舞台版「パッチギ」で関係ないのだけれど。

政権が代わりようやくこの外務省機密漏洩事件の本質があらわにされてきた。当時記者が外務省職員と「情を通じ」「そそのかし」て機密文書を持ち出させたという事ばかりが声高に言われ、国家の犯罪を覆い隠した。

本当に卑劣な事件だ、どちらが国民にとって重要なのか、
日本人の多くがそちらにばかり目を向け二人を攻撃したことは何という情けないことだろう。
民芸か、俳優座か、新劇で舞台化されて、そのチラシは記憶にあるのだが地方在で観ることは出来なかった。どなたか、ご存知でしょうか。

澤地久枝 さんのファンなのにこの本を読んでいなかった。
山崎豊子の『運命の人』 もこの事件が題材というのを、今回やっと知ったていたらくである。

最近の白洲次郎 のドラマでは憲法制定過程に全然日本の憲法学者ベアテさんは出てこないで白洲ばかりが英雄のごとく描かれていたのも、坂の上の雲 にも非常に危惧を抱いている。

沖縄はアメリカの戦争の為に不法に占拠され続けている。
ひまわり博士のうんちく
基地、核、戦闘行動など、沖縄が抱える様々な問題を、アメリカと、日本の国民全体、そして沖縄住民のすべてを丸め込むために交わされたのが、沖縄密約である。
 返還後の沖縄に核は持ち込まないことになっているにもかかわらず、実際には現在でも沖縄の米軍基地には核弾頭が保管されていることが疑われている。つまり、日本の国内向けには、非核三原則(作らず、使わず、持ち込ませず)を唱えながら、実は、アメリカに対しては秘密裏に持ち込みを許可していたのである。
 佐藤栄作は、この非核三原則ノーベル平和賞を受賞し、史上例のないブラックユーモアといわれた。


 『運命の人』も『密約』も、テーマは佐藤政権時における沖縄返還にまつわる、いわゆる「西山事件」、すなわち毎日新聞西山太吉記者と外務省事務官の蓮見喜久子さんによって、機密文書が持ち出された事件である。
 『密約』では『運命の人』で描かれている渦中の男女の姿が、一層リアルな輪郭を与えられているとともに、小説では見えて来なかった国際政治という大きな嵐に飲み込まれていった男女の位置が実に明確にわかる。
 
 沖縄返還交渉では、本来アメリカが支払うべき400万ドルの軍事基地原状回復費用を、日本側が肩代わりするという裏取引が行われた。
 その交渉が行われる過程で交わされた電信文の記録を、交際相手であった蓮見さんから西山記者が受け取り、それが社会党議員の手に渡ったことから漏洩が発覚して、両名は国家公務員法違反で起訴された。
 
 政府側は一貫して――証拠を突きつけながらも――頑に「密約」の存在を否定する。
 起訴した検察側と弁護側とでは、お互いに論点がまったく異なる裁判を進行することになった。
 弁護側が国民の利益と憲法21条の表現の自由のもとに、国民の「知る権利」を主張したのに対し、政府側の利益を守ろうとする検察側は、被告の両名が交際関係にあったことを理由に、記者が外務省職員と「情を通じ」、「そそのかし」て機密文書を持ち出させたという、極めて卑俗な下半身問題にすり替えた。
 
 国民の税金を支出する件については、国民に対し秘密があってはならないのであって、したがって「400万ドル肩代わり」は開示されてしかるべき事案である。だから、国民の目から隠れて「密約」を行った当事者こそ裁かれるべきなのだ。
 しかし、検察は文書の持ち出し方法を訴訟対象とすることに終始し、国民の視線を「下半身」に向けさせることに成功する。
 
 仮に「そそのかし」があったとしても――事実は「そそのかし」ではなく、交際相手としての好意であったと言う方が正しい――機密の持ち出しと「密約」は別個に裁かれなければならないはずである。
 文書の入手方法が不正な手段であれば、その内容も見なかったことになるというものではない。
 しかし、下半身問題にすり替えられた「密約」は、その本質が消滅してしまう。それは、人間の性(さが)というか、あまり認めたくないことではあるが、どうしても人というものは下卑た出来事に目を奪われると、その向こうにある大きな問題が見えなくなる傾向にある。
 したがって権力は、都合の悪い問題が表面化しそうになると、スケープゴートをしつらえて、いとも簡単に国民の目を欺く。
 それは、つい先頃ようやく崩壊した自民党政権が常日ごろから行ってきたことだ。
 
 『密約』が最初に出版されたときに寄せられた、五味川純平氏の解説が、実に端的に、かつ鋭く、怒りを込めて指摘している。
 
 
「情を通じ」たからどうだというのか。子どもではあるまいし、情を通じるか否かは、男女当事者同士の自由意志である。西山記者の情報入手の経路がスパイ小説もどきの高等科学的経路でなかっただけのことである。
 権力側が外国と重大な密約を行った。国民は当然知る権利があった。その権利を阻む官僚組織の壁が厚かった。一人の記者がその壁を通して隠された事実を明らかにしようとした。官僚組織内の一人の女性が関係した。事件を簡略に図式化すれば、それだけのことなのである。
 
 「情を通じ」云々の情報は、もっぱら蓮見さんの一方的な証言によって成り立っている。その内容は事実と違う点が多々含まれているにもかかわらず、西山氏はそれについて一切反論していない。