riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">「原爆の子」と「我が道」</span>





テレビで 新藤兼人監督の「原爆の子」と「我が道」 を鑑賞しました。
どちらの映画にもパートナー乙羽信子殿山泰司が出ています。
この二人の俳優も素晴らしかったですね。
1952年制作の「原爆の子」は戦後に初めて原爆を直接取り上げた映画とされている。

「私が『原爆の子』に執着したのは、私が広島で生まれ、広島を我が街と思ったからである。私自身がピカの一発を受けた思いが強かった。一発の爆弾で一つの街が吹き飛ばされるようなことを誰が想像したであろうか。しかも無警告、一般市民に対してだ。(中略)広島は地獄だった。ピカッと光った熱線に焼かれ、ドンと音がして吹き飛ばされ、電車に乗っていた者はそのまま焼かれ、生き残った者は焼けた皮膚を垂らして幽鬼となってさまよった。ここは戦場ではないのだ。一般市民の街なのだ。私は戦争から帰り、広島を見て、茫然とした。広島がないのだ。七つの川が光っていて、海がじかに見えるのだ。どれほどのものが一挙に失われたか、私に分かるのは、私が少年の日、毋に連れられてしばしば映画を見たり、うどんを食ったりした思い出があるからだ。(中略)人間は、家族と共に家に住み、生活をして絆をつくり、あたためあう。世界の人間がそうして生きている。それをぶっつぶすヤツに、私達は一言も抵抗出来ないのか?」(新藤兼人

本当に、アメリカの残酷な犯罪、戦争を長引かせて自国民を守れなかった日本政府、アメリカに抗議も出来ない政府、あきれはてます。

1953 年、カンヌ国際映画祭に出品されるも、米国がこの作品に圧力をかけ、受賞妨害に外務省が工作を試みた。また西ドイツでは反戦映画として軍当局に没収されるなど、各国で物議を醸したが"原爆許すまじ"という世界の声に合致し各国で大きな反響を呼び、1954年には第8回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭平和賞、1956年に第10回英国アカデミー賞国連平和賞やポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受賞し、世界に於いて反核映画の第1号となった。現在もこの映画はヨーロッパで度々上映される。

新藤監督の映画にはいつも感心しています。この映画も1952年の映画とは。
原爆を投下された瞬間の映画を作りたいとおっしゃっていたけれど。






「わが道」は
出稼ぎ労働者と家族の悲惨さを巡るドラマから後半は法廷劇へ展開していく新藤作品。寒村で食堂をしていた夫婦に乙羽信子殿山泰司。年老いた夫が出稼ぎに出て倒れてしまう。そこで身元不明人として警察の不手際で病院で解剖実験される夫。怒った妻の行動から周りの人に突き動かされ裁判に。

映画の冒頭に前に聞いたことのある詩が朗読される。

村の女は眠れない 草野比佐男
女は腕を夫に預けて眠る
女は乳房を夫に触れさせて眠る
女は腰を夫に抱かせて眠る
女は夫がそばにいることで安心して眠る

夫に腕をとられないと女は眠れない
夫に乳房をゆだねないと女は眠れない
夫に腰をまもられないと女は眠れない
夫のぬくもりにつつまれないと女は眠れない

出稼ぎの悲劇が映し出される、その中に母娘売春の話が!
これはあの大竹しのぶ主演の「ふくろう」 です。
この話の映画作製、長年暖め続ていられたのでしょうか。

この映画で大竹しのぶ