riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">パリ・パッシーのアールヌーヴォ建築</span>





6月6日にバガテル、マルモッタン美術館 のあとにパッシーのアールヌーヴォ建築 を観に行きました。

バガテルの記事はまだ途中です。

98年3月にパリに行った時は、ホテルだけが付いた6or7泊ツアー(15万+一人部屋代金)で今は名前が変わってるニッコードパリに泊まりました

毎日ホテルからセーヌに行きかうバトー・ムッシュを上から見ていたのに乗る時間はありませんでした。今回も(o´_`o)

98年帰国する日にセーヌの対岸のバルザックの家 とその付近のアールヌーヴォ建築を見学しました。

バルザックの家はパリには珍しい庭付き一軒家、銅像の所にベンチもあったのですが座る気にならない鳥の落し物が~

1976年に開業したホテル・ニッコー・ド・パリ開業(764室)は2002年ノボテル・パリ・ツール・エッフェルに改称されています。


ガイドブック片手に、だけれどなかなか探すのは難しい。
98年ホテルから見ていたラジオフランスも様相が変わりでした。工事中。

余談ですがギャラリー・ラファイエットの天井のステンドグラスも素晴らしかった。今回は行けませんでした。

建築としてのアールヌーヴォが初めて登場したのはブリュッセルのオルタのタッセル邸(1892)
それを見学して感銘を受けたギマールが帰国後設計変更を加えて完成させたのが、このカステル・ベランジェ。パリで最初のアールヌーヴォ建築になった。

私がここで写真撮っていた時、東洋人ではない女性二人も外から見学していました。
ほかでは見学する人はいなかったです。


  


36戸からなるアパート。プランが全部異なる。外観は砂岩、レンガ、タイル、鉄と様々。ベランダや換気口などに奇怪な生物のような鋳鉄さ行くまで付けられた。そうした統一感のない賑わしい外観や薄気味の悪い内装・パネルから、アパートの名をもじって「おかしな館カステル・デランジェ」と当初冷たい批評を浴びた。今そのおかしな館は16区のラ・フォンティーヌ街にはなくてはならない存在に。下村純一「アールヌーヴォの邸宅より」


以前、ウィーンのシェーンブルン宮殿に住んでる人たちがテレビに出ました。


ギマールが手掛けた地下鉄の入り口はパリ市内に凡そ170もあったといわれています!その多くは、20世紀の前半には取り壊されてしまい世界中の美術館に引き取られたそうです。


  



このカステル・ベランジェに引っ越して来た女性が、一週間寝込んでしまったという言い伝えさえあります。そんな評判に対するギマールの答えは。「慣れてしまえば、なかなかいいものですよ」エクトル・ギマールは、1867年リヨン生まれ。

ギマールも名前とメトロ入り口の有名な装飾ぐらいしか知らないのです。
ブログにアップして見ていただかないと調べることすら忘れてしまいますから。
モンソー公園のメトロ入り口




オテル・メザラ
1910-1911 三階建ての戸建て住宅はパリには珍しい。ナンシーでも似たような建物がありました。
ここの一階の半分ほどは施主のタペストリーの店舗で天窓や扉では優雅な曲線のステンドグラスが輝いてるそうです。が公開されていない。

家具はオルセー美術館にもありました。ギマールは建物だけでなく家具やステンド,証明器具階段などすべてのものを設計。



このマンションの手すりにもメトロの装飾と同じようなものが。



最上階のベランダは沢山の花たちが植えられています。



高級住宅街ですが安いスーパーもありました。












アール・ヌーヴォーという国際的な運動の中にあって、ギマールは孤立した狙撃手のようであった。彼はまったく弟子をとらず、学派もつくらなかったが、そのために彼は長らくこのアール・ヌーヴォー運動の脇役と見なされがちだった――この建築家は、著しく旺盛な創作活動を行ったわずか15年ほどのあいだに、彼自身渾身の、形式的にも文字どおり夥しい数の建築・装飾作品を製作したにもかかわらず、それらは後世には伝えられなかったのである。



しかし、こうした目覚ましい発明の数々やあらゆる方面へのデモンストレーションにもかかわらず、新聞や人々の目は急速にギマールから(その作品というよりも、いらだつこの男から)離れていった。そして彼自身こそが、アール・ヌーヴォーの代表者にふさわしい人物として、この運動の理想の抱える本質的な矛盾の犠牲者となったのであった。すなわち、彼の最も完成された製作物が、大多数の人々にとって金銭的な意味でアクセスできないものであったし、そしてその逆に、彼の規格化への試みは、彼自身の語彙にそぐわないものだった。戦争を恐れて亡命したニューヨークで(彼の妻はユダヤ人だった)1942年に没したとき、ついに彼は完全に忘れ去られたのだった。




地図で見るとマルモッタン美術館からパッシーまであんまり遠くもないと思っても中々見つけるのは難しく土地の方に聞いてみると…バスを教えてくれたり運転手さんに降りる場所を頼んでくれたりします。ありがたいことです。

いったん見つけるとわくわくで夢中で歩きます。

ビルの隙間からエッフェル塔がちらり見えたのですが。

ラジオフランス付近のカフェのサラダ、下にハンバーグがありましたがあんまり美味しくはありませんでした。

マキシムのアールヌーヴォー美術館も行きたかったのですが時間はありませんでした。