riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">歴史家色川大吉先生</span>


朝日新聞、アサヒcomより転載です。


 ■戦後65年 改めて思うこと

 ――今年は戦後65周年。戦争の記憶の風化に市民はどう向き合うべきですか。

 「ついこの間まで『敗戦50年』『敗戦60年』なんていう特集が、新聞やテレビで盛んに組まれていたというのにね。敗戦時に20歳だった若者が85歳。中国戦線や南方戦線に赴き、人を殺したりした経験のある人の多くは90歳近い。元気な人はもう半分以下くらいではないか。戦争を目撃した人、経験した人なら、戦争の愚かさを次世代にきちんと伝えていく使命がある。もちろん僕もその一人だが」

 ――色川さんは当時軍隊にいましたね。

 「65年前のいまごろ、僕は特攻隊の基地にいた。米国の性能のいい攻撃機が上空を飛んでいた。連合艦隊が本土近くまで来て、艦砲射撃を繰り返していた。いよいよ追い詰められたな、と思っていた」

 ――死を覚悟した?

 「とんでもない。覚悟するなんて大げさな話ではなくて、ただ、生き延びられるわけがない、しょうがないと思っていた。国民の被害を少しでも減らそうと思い、上陸する米兵を波打ち際で少しでもやっつけないといけないと考えていた。だが、肝心の迎え撃つ兵器はない。飛ばせる飛行機もなかった。僕は通信を担当していたから、沖縄戦で壊滅して無線が切れるまで、連戦連敗の戦況がどんどん入ってきた」

 ――周りはどうでしたか。

 「基地の連中もみんな、非常にデカダン(退廃)的だった。だってそうでしょう。ごく少数の零戦は残っていたが、軍艦もほとんどが沈んでいた。予科練を出た10代の子どもらの一部は(戦況の)転換を信じていたが、勇壮な軍歌は、白々しいといってほとんど歌われなくなった。勝つ見込みがないのに、絶対に勝つから頑張れという歌を歌っても意味がないからだ。代わりに戦後にはやった『五木の子守唄』が基地内で歌われていた。おれたちが死んだからといって、だれもお経なんてあげてくれやしない、そんな歌詞が受けていた」

 ――旧日本軍のイメージを覆す証言ですね。

 「敗戦65年の節目に改めて僕が思うことは、戦争は勝っても負けても無意味でつまらないものだということ。太平洋戦争の場合、米国という強大な経済大国、産業、技術大国に日本のような後進国が勝てるわけがなかった。戦争は負けたら二重に三重に悲惨だ。武力で自分の目的や理想を押しつけることはできない。それを改めて伝えたい」

 ――東西冷戦後も世界では戦争が繰り返されています。

 「米国では次の世代に戦争は無意味だという教訓が伝わっていない。ベトナム帰りの連中が希望を失い、米国の若者はニヒリズム虚無主義)に陥ったが、無益な戦争を繰り返している。アフガンもイラクもそうだ。勝つも負けるもわからない戦争になってしまっている。戦争に正義や大義なんてないんだ」

 ――中国の軍拡や北朝鮮の核・ミサイル開発に対抗する狙いで、首相の諮問機関が自衛隊の配備見直しを検討しています。

 
民主党政権自民党政権ですら最終的に手をつけなかった非核三原則の見直しにまで踏み込もうとしている。自衛隊の重点配備は、かつてソ連を仮想敵国にしていた時代の発想と同じで、握り拳を相手に突き出すようなものだ。まったく愚かで狂っているとしかいいようがない」

 「日本はいま、中国と経済関係を絶つことになったら、経済的に生きていけない。企業や生活者の願いは、中国と共存共栄の関係を築くことで、軍事面で対抗する政治の方向性はおかしい。それと、北の脅威だなんていうけれど、在韓米軍の圧倒的な力の差を前に、頭越しに日本に攻撃を仕掛けてくるなんて考えられない。僕は民主党政権になって、護憲派の方針が前面に打ち出されると期待していた。いまの民主党はかつての自民党以上に危なっかしい。彼らはいったい歴史から何を学んだというんだ」

 ――対案はありますか。

 「敵国に対抗する軍事力をある程度持つから戦争が起きるのであって、まったく無力なら起きない。そのことを肝に銘じるべきだ。中国については、軍事力で対抗するのではなく、外交努力で軍拡を是正させる。日本は憲法で、国防を軍事力に頼らず、外交や文化、政治力、経済力で防衛するという方向に転換した。アジアの一員として、中韓を始め、アジア諸国と対等な友好同盟関係を築くべきだ。もちろん米国の思いやり予算をやめ、真に対等な同盟条約を結ぶ。アジアの警戒心を解くことから始めることだ」

 ――最後に。市民はどうでしょう。

 「かつて三木武夫(元首相)の勉強会に招かれたとき、『いまの(冷戦)状態なら、第3次世界大戦は起きても不思議ではない』と答えたことがあるが、日本が戦争を起こす駄目な国になるなんて思っていない。内向きにならず、外に目を向け、風を読む力を持った市民が3分の1いるからだ。1日2~3時間、インターネットのブログなんかを見て思うけれど、敗戦から65年間、世論を動かすこれら3分の1の声なき声があったから、平和憲法非核三原則は堅持されてきたと改めて思う」

《略歴》
 いろかわ・だいきち 1925年千葉県生まれ。東大文学部卒。東京経済大名誉教授。専門は日本近代史。民衆思想史研究の第一人者で、「明治精神史」など著書多数。「自分史」の提唱者として知られ、「ある昭和史――自分史の試み」で毎日出版文化賞受賞。作家の故小田実氏と市民団体「日本はこれでいいのか市民連合」の共同代表を務めるなど反戦運動に参加。12年ほど前に北杜市に移住。近所の住民と互助組織「猫の手くらぶ」を結成した。

《取材を終えて》
 色川さんといえば、テレビ朝日の討論番組「朝まで生テレビ!」で活躍していた姿を思い出す。作家野坂昭如さんや映画監督大島渚さんら癖のある出演者が大声を浴びせ合うなか、小柄で白髪の色川さんはいたって冷静。天皇制に反対するリベラルな左派学者の論客として存在感を示していた。

 「収録が終わると、番組でワーワー言い合っていた左翼も右翼もみんなで飲んだ」と色川さん。肝硬変を患い、転地療養で北杜市に引っ越してからはテレビの世界からほぼ身を引いた。

 家族と離れ、独り暮らし。面会するまで「体調が優れないのではないか」と思っていたが、杞憂(きゆう)だった。「今年の冬は毎日のようにスキーに通った。僕は山岳部出身。炊事、洗濯も苦にならない」とけろっとしている。山が育てた太い手足。主治医の診断では、免疫力が高まり、経過は比較的良好という。

 「教え子があと10年生きてくれとうるさくてね」と笑う。毎日手帳に日記をつけることも欠かさない。生涯現役を貫く言論人の姿勢に脱帽する思いだ。(床並浩一)