riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">日本最古の大浦天主堂</span>





日本のキリシタンの過酷な歴史には涙を禁じえませんね。

遠藤周作の「沈黙」は学生時代に読みましたがこれがまたスコセッシ監督により映画化されるそうです。

この教会、ヨーロッパに比べるとこじんまりとつつましい感じもいいですね。

天正遣欧少年使節少年使節までローマに送ったのにあそこまで残酷に弾圧されて‥少年使節も帰国すればキリシタンはご法度、中浦ジュリアン(副使) 後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴づりによって殉教しました。







大浦天主堂(おおうらてんしゅどう) 日本最古の現存するキリスト教建築物。 正式名は日本二十六聖殉教者堂。その名の とおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂である。

構造・様式 [編集]江戸時代末期の文久3年(1863年)に、フランスのパリ外国宣教会宣教師で日本教区長のジラール (Girard) 神父の命を受け、横浜にいたフランス人司祭(神父)ルイ=テオドル・フューレ (Louis-Theodore Furet) とベルナール・プティジャン (Bernard Petitjean) が長崎に着任した。ふたりが基本設計を行い、天草御領島出身の小山秀之進が大工棟梁として施工した[1]。建築当初は三本の塔を持つゴシック風のつくりながら、正面中央の壁面はバロック風で、外壁はナマコ壁という特殊なスタイルであった。1875年から1879年にかけて大規模な増改築が行われ、外壁を煉瓦造にあらため完全にゴシック風の建物になるなど、創建当時の外観から大きくその姿を変えたものが現在の教会堂である。[要出典]木造だった創建時に対し、1879年5月22日に献堂された新教会堂は九州初の煉瓦造構造となった[2]。1933年1月23日に旧国宝(現・重要文化財)に指定された[3][4]。

1945年の長崎原爆被爆で破損したが、爆心地から比較的離れていたため焼失は免れた。1952年には修理が完成し、翌1953年3月31日[5][6]に洋風建築初の新国宝に指定された。

2007年、建立当初の設計図(平面図と側面図)を、長崎総合科学大学の林一馬教授が、パリ外国宣教会本部古文書局に保管されていた資料の中から発見した。設計図では、屋根は瓦ぶき、窓は洋風で、会堂や廊下などの列柱の位置は現在と同じであった[7]。

建立まもない天主堂は「フランス寺」と呼ばれ、美しさとものめずらしさで付近の住民たちが多数見物に訪れていた。プティジャン神父には今でも何処かでカトリック教徒が密かに信仰を伝えているのではないかというわずかな期待があった。

1865年3月17日金曜日、浦上 (長崎) の住民十数名が天主堂を訪れた。そのうちの四、五十歳くらいの女性がひとり、祈っていたプティジャンに近づき、「私共は神父様と同じ心であります」(宗旨が同じです) とささやき、自分たちがカトリック教徒であることを告白した (この女性の名はイザベリナ杉本百合だったと言われている)。彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンである事実を話し、プティジャン神父を喜ばせた

あれだけ弾圧されたのにカトリック教徒を発見したときは奇跡的だったでしょう。竜馬伝の蒼井優ちゃんが演じたキリシタンが印象深かったです。




協会内部は撮影禁止なのでグラバー園の画像を追加します。
見晴らしがいいですね。












この時代の服装を借りて園内を散策することが出来ます。明治村思い出します。
これはレンタル用ではありません。レンタルの服は別棟にあります。

















長崎駅に展示してある御朱印船