<span itemprop="headline">三度目の九州でやっと長崎へ</span>
駅で回転寿司でランチをそそくさと済ませて、(博多のすし屋さんは満席では入れませんでした。長崎の駅のこの回転寿司のマグロは??でしたがアラ味噌汁、白味噌は泡のようで美味しいかったです。)駅前から可愛いバスに乗りました。
小さなバスですぐ満員、渋滞になってしまいました。
しかもこのバスは山の下でユーターン、これにはあせりました。
上まで行ってはくれないのですね。
しかもこのバスは山の下でユーターン、これにはあせりました。
上まで行ってはくれないのですね。
あとで聞いたらこのバスは三月で赤字のため廃止、それもそのはず100円でした!
有田は冷たい冬の風でしたが長崎は初夏のようでした。クラバー園へ。
前にわたしのクマちゃんみなかった?絵本の翻訳でご紹介した友人は用事で何回か長崎には行っていてこのサイトがよいと教えてくれました。
以下は友人の言
2006年のさるく博で、冊子のガイドブックが元になっているようです。
とても便利な冊子です。
目的を持たず、ブラブラ歩くのが一番長崎を体感できる。
鳴滝のシーボルト館あたりの道(シーボルトも高野長英たちが好きなので行きたいところです。)
原爆記念館から、大学病院へ抜ける道は、春の日は花がきれいです。
反面、美しくのどかな風景の間に、65年前の悲劇の傷跡もあちこちに見られ、
ちょっと胸が痛くなる通りです。
チャラチャラした日常の自分を真摯にしてくれる場所でもあります。
浦上天主堂の入り口からの眺めも、いろんなことを考えてしまいます。
また龍馬たちの足跡も、幕末の若き志士たちの情熱を感じさせてくれます。
まあねえ いろいろキリがないけどねえ。
小さな街だけど、歴史的にいろんなことを経験しているから、奥が深いです。
最近では大河ドラマで福山さんがここから竜馬の扮装での特番がありました。
壁から落ちる滝や三浦環の像、日本発の洋食屋などあります。
急な崖でエスカレーターがあり助かります。
グラバーは国産ビールキリン誕生にかかわりキリンのひげはグラバーのひげ!
長崎に原爆が投下された一週間後グラバーの息子倉場富三郎は首つり自殺、悲しい話です。
港には豪華客船が入り、外国の観光客もいっぱいでした。
見晴らしがよくて気持ちのいい高台です。
続きます。
追記
倉場富三郎のことは最近知りました。グラバー図譜にも感心しました。
倉場富三郎のことは最近知りました。グラバー図譜にも感心しました。
幕末から明治維新にかけて活躍したイギリス人貿易商トーマス・グラバーと日本人ツルの間に2人姉弟の第2子、長男[1]として1871年1月28日(明治3年12月8日)、長崎に生まれる。
長崎の加伯利英和学校を経て学習院を卒業後、アメリカのペンシルベニア大学で生物学を学び、帰国後、父のホームリンガー商会に入社、また長崎汽船漁業会社を興して日本に初めてトロール漁業を導入するなど第二次世界大戦前まで長崎の実業界にて活躍する。妻も日英混血の中野ワカ。また、長崎魚市場から収集した水産動物の精巧な図譜『日本西部及び南部魚類図譜』いわゆる『グラバー図譜』を編纂した。
第二次世界大戦開始後、イギリス人と日本人の混血児だった富三郎はスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送ることを強いられた。武蔵建造の機密保持を理由にグラバー邸を退去させられたり、ワカに先立たれるなど不幸な晩年を送り、更に原爆投下により故郷が壊滅した事が追い打ちとなり、終戦直後の1945年8月26日に長崎の自宅で自殺した。
遺体は長崎市の坂本国際墓地に妻とともに埋葬されている。両親の墓とは隣同士である。死に先立って『日本西部及び南部魚類図譜』の遺贈先を理解者の渋沢敬三に遺言状で指定。その後渋沢は長崎大学水産学部に寄贈した。
あの頃、外国人はスパイ嫌疑をかけられ国の監視の中で厳しい生活を送りました。
日本人には英語は敵の言葉だと教えなかったり野球用語も日本語にしたり。
外国の音楽を聴いたり演奏するのも禁止。
アメリカが日本語学ばせたのとは大違いです。こんなところにも偏狭な考えが見えます。
戦争に負けた後も差別や偏見が続きました。
第二次世界大戦後も多くの混血児が生まれました。
映画キクとイサムも名作です。