riboni5235’s diary

英国庭園、ミュージカルファン、親子・ペアのアメショー3匹と暮らしています.バラ栽培アンティークも大好きです。よろしくお願いします!

<span itemprop="headline">東山植物園のバラ園</span>





昨日は東海市日帰り温泉夢童さんの大きなハイテクからくり人形があるのに、びっくり。
なぜここに?温泉従業員に聞いてもネットで見てもわかりません。

大阪中之島のばら園や公会堂内部のUPの前にこの地方のばら園をご覧ください。





岐阜の可児市のバラ園花フェスタ記念公園は日本が誇るばら園、特に春のオールドローズは見事です。ターシャの庭のミニチュア,クレマチス、もあります。

名古屋では庄内緑地公園






名古屋で、最初に整備された公園である。国の登録 記念物(名勝地関係)に登録されている。日本さくら名所100選に選定されている


名古屋開府300年にあたる明治43年、鶴舞公園で共進会が開催されました。90日間の会期中に訪れた人は約263万人(当時の名古屋市の人口は約41万人)。共進会のために建設された施設は、本館をはじめとする各種パビリオンのほかに、貴賓館(後の聞天閣)、噴水塔、奏楽堂、胡蝶ヶ池、胡蝶ヶ池に架かる鈴菜橋、鯱ヶ池もありました。
 共進会終了後、噴水塔と奏楽堂は名古屋市に寄付され、明治45年、それらの施設を取り込みながら公園の本格的整備に着手。設計は、東京の日比谷公園を設計した東京農科大学(現・東京大学農学部)教授の本多静六林学博士と、噴水塔・奏楽堂の設計をした名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)教授の鈴木禎次工学士が中心となり、日本庭園は村瀬玄中と松尾宗見の両宗匠が担いました。正門から噴水塔、奏楽堂を中軸とした左右対称のデザイン、噴水塔東に広がる芝生と花壇の幾何学模様は近世フランス式洋風庭園。胡蝶ヶ池、竜ヶ池、吉田山、熊沢山の起伏に富んだ地形の間を渓流が巡るのは廻遊式日本庭園。和洋折衷の大公園は、大正9年までに一応の完成をみたのです。

大正時代はデモクラシーの時代でもあり、鶴舞公園は民衆運動や労働運動の集結会場としての役割も果たしました。名古屋初のメーデー鶴舞公園で行われたのは大正12年のこと。その後、昭和10年に内務省が治安の保持を理由に屋外の集会を禁止するまで続き、昭和21年に再開されてから昭和末まで、毎年何万人もの労働者が陸上競技場を埋め尽くしました。


鈴木禎次工学士は木造建築に替えて,石造りやれんが造りで名古屋の街を大変身させた建築家である。彼の作品は,広小路通りだけで十棟ほど建てられた。例を挙げれば,現在の松坂屋につながる伊藤呉服店などである。現在,彼の作品はあまり残っていないが,鶴舞公園には,第10回関西府県連合共進会を記念して彼が設計した噴水塔と奏楽堂がある。噴水塔は,昭和48年に地下鉄鶴舞線工事のため解体撤去され,昭和52年に完全復元された。また,奏楽堂は,平成9年に創建当時の姿に復元されたものである。
また彼は,夏目漱石(なつめそうせき)の義弟にあたる。彼は,1941年(昭和16)に71歳で生涯を閉じるまで多くの弟子を育て,日本建築界に多大な影響を与えた。



動物園や非常に高い遊具、滑り台などもありました。

近くには八幡山古墳
があります。

隣の名古屋大学の13、14回のレストランから見るバラ園がお気に入りです。



  


女神?ニンフ像などは市民から寄贈されたものです。














イギリスのキューガーデン
の温室にそっくりでしょう。

動物園の開園に先立ち、1937年(昭和12年)3月3日に開園した。

植物園内の大温室の前館は開園当時のもので、現存する温室では日本最古である。当時は「東洋一の水晶宮」と呼ばれた。2006年(平成18年)12月には重要文化財となる。また、前館内には開園当時に植えられたヤシなど十数種が現存している。


植物園全体は自然林を生かす形で整備されており、未舗装路も含めて縦横に散策路が走る。梅園、桜の園、椿園、花畑などに加えて、尾張藩の聞人として名高い横井也有にちなんだ也有園}}}
など複数の庭園があり、奥池のほとりには1956年(昭和31年)に白川郷から合掌造りが移築され内部が公開されているほか、日本庭園の傍には1971年(昭和43年)に見つかった東山古窯跡群の窖窯跡
が残る。

1996年(平成8年)には「東山植物園の野鳥」が日本の音風景100選
に選ばれた。

また、植物園ではあるが、子供たちが動物と直に触れ合える「小鳥とリスの森」や「こども動物園」が一角に置かれており、人気遊具としてローラー式すべり台「樹快ダー」(全長約200 m、高低差約28 m)も設置されている。















59ヘクタールもの広大な園内には、動物園(本園・北園)、植物園、東山スカイタワー、さらに遊園地が併設されている。名物は数百種類もの世界中のメダカ類を体系的に展示している「世界のメダカ館」である。また、国内では3園でしか飼育されていない希少なペルシャヒョウや、国内では1頭のみと言うドールシープ、ミミセンザンコウも飼育されているほか、屋外飼育で活発に走り回るシンリンオオカミの姿が見られたり、カンガルーを至近距離で見られる「カンガルー広場」、ライオンをガラス越しに見られる「ワ〜オチューブ」が設置されるなど、動物本来の生態を見せる展示が進められている。また、ほかの施設では隠蔽されがちな動物の(飼育下での)精神的ストレス(を解消させるということ)についても来園者に対してきちんと説明が行われている。



東山動植物園のブラジルバク1890年(明治23年)に、動物商の今泉七五郎により公開された「浪越教育動物園」を起源としている。市立動物園としては今泉から譲渡された動物を元として、鶴舞公園において1918年(大正7年)に「名古屋市鶴舞公園付属動物園」として開園したものが始まりである。手狭になったため、当時新設された東山公園へと昭和12年1月に移転し東山動物園に改名。開園当初は「東洋一の動物園」とも呼ばれていた。

第二次大戦前には、ゾウ・キリン・ライオン・トラなど700種1200点という動物数を誇る大動物園となる。戦中、上野動物園天王寺動物園と同様、空襲によって暴れだしたら問題だということで多くの動物が殺されたり(戦時猛獣処分)、餌不足により餓死するなどし、終戦まで生き延びたのは5種26点(ゾウ2頭、チンパンジー1頭、カンムリヅル2羽、カモ20羽、白鳥1羽)だけであった。しかし北王英一園長などの努力があり、日本国内では唯一ここの2頭のゾウだけが終戦時まで生き延びたため[4]、戦後になるとゾウを見ようと全国から小中学生団体が詰め掛けた(象列車
の項目も参照)。

戦後には動物の数も回復。昭和20年代後半から40年代前半まではゾウやゴリラによる動物ショウなどが人気を博したが、世相の変化もあって、単なるレクリエーションではない、教育・研究・繁殖などにも重きを置いた動物園へと徐々に転換した。

1984年(昭和59年)には、日本で初めてコアラが来日し、コアラ舎には連日の行列ができた。また、外国の動物園とも姉妹動物園になる。Wikiより